カント哲学(2)

前回よりのつづき

C 先験的弁証論
超験的と呼ばれる概念によって生み出される見せかけを破壊することが、先験的弁証論の課題です。
・悟性はカテゴリーをもち概念から原則をつくるが、理性は理念をもち悟性の原則の基礎である原理をつくる。
・悟性の制約された認識に対して、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力である。
・悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって、超験的になる。
・カテゴリーの超験的な誤った使用から先験的仮象が生まれる。この先験的仮象をあばくことが先験的弁証論の課題である。
理性の思弁的理念は三つあります。
(1) 心理学的理念(思考する実体としての魂の理念)
(2) 宇宙論的理念(あらゆる現象の総括としての世界の理念)
(3) 神学的理念(すべてのものの可能性の最高の条件としての神の理念)
これらの理念とともに、理性は悟性のカテゴリーを無制約的なものへ適用しようとして、仮象と幻想のうちへ巻き込まれます。
心理学的理念においては「純粋理性の誤謬推理」を犯し、宇宙論的理念においては「純粋理性の二律背反」へと追いやられ、神学的理念においては「純粋理性の理想」のうちをさまよう。


(a) 純粋理性の誤謬推理
・ここで伝統的な合理的心理学の完全な破壊をくわだてる。
・心を非物質性という属性によって霊的な物とし、不破壊性という属性によって単純な実体とし、人格性という述語によって数的に同一の叡知的実体とし、不死という述語によって空間的でない思考的存在としていた。
・これらはすべて「我思う」から導き出されたものであるが、この「我思う」は直観でもなければ概念でもなくて、たんなる意識、心の作用にすぎない。
・この思考作用が物と考えられ、主観としての自我が客観としての自我(魂)にすりかえられる。
・思考そのものを肉体から離して考えることはできるが、だからといって思考が肉体から離れて存在するということにはならない。


(b) 純粋理性(宇宙論)の二律背反
※ この部分は前回冒頭で述べたことの繰り返しになりますが、「哲学史」の方ではこの部分についての説明はそれほど多くはなく、定立と判定立を列挙するだけに止まっています。
・宇宙論的理念を完全に集めるにはカテゴリーを導きの糸とする必要がある。
量 → 世界の空間と時間との全体についてなんらかのことが確定されなければならない。
質 → 物質の分割性についてなんらかのことが確定されなければならない。
関係 → 世界に現在あるところの諸結果にたいして原因の完全な系列が見出されなければならない。
様相 → 偶然的なものがその諸制約にしたがって理解されなければならない。
以上四つのすべての点について相反する主張が同じ妥当性をもって証明される。
(1)
定立 ー 世界は時間のうちに始まりをもち、空間的にも限られている。
反定立 ー 世界は時間的始まりをもたず、空間的限界もない。
(2)
定立 ー 世界におけるすべての複合的な実体は単純な諸部分から成り立っており、単純なものとそれから合成されたもの以外のものは存在しない。
反定立 ー 複合物は単純な諸部分から成るものでなく、世界には単純なものは存在しない。
(3)
定立 ー 自然の法則にしたがう因果性は、世界のあらゆる現象がそれから導き出されうる唯一の因果性ではなく、それらを説明するためには、なお自由による因果性が想定されなければならない。
反定立 ー 自由は存在せず、世界における一切は自然法則にしたがってのみ起こる。
(4)
定立 ー 世界にはその部分としてか、あるいはその原因として、端的に必然的な存在が属する。
反定立 ー 世界の原因としての端的に必然的な存在は世界の内にも外にも存在しない。

以上、これらから、この争いがすべて無価値であるという帰結がおのずから生まれる。


(c) 純粋理性の理想(神の理念)
カントはここで、もっとも実在的な存在(神)の実在を証明しようとする旧形而上学の努力に反対している。
それは「存在論的証明」「宇宙論的証明」「自然神学的証明」からなされている。
「存在論的証明」については、まったく勝手に作り上げた理念から、それに照応する対象そのものの存在を案出しょうということは、まったく不自然なことであり、机上の知識を事あたらしく作りかえたものにすぎないとし、「宇宙論的証明」では、現象する偶然的なものから、経験をこえて必然的な存在者を推論するという誤りを犯していると言い、「自然神学的証明」においては、それは世界の形式から、この形式にふさわしく十分な原因を推論するのであるが、このような仕方では世界の形式の創始者すなわち世界の建設者がえられるだけで、質料の創始者でもある者、すなわち世界の創造者はえられないとしています。

したがって、我々が理性を理論的に用いるかぎり、最高の存在というものは、誤ってこそいないがたんなる理想にすぎず、人間の全認識の究極および頂点をなしてはいるが、その客観的な実在性は明確に証明もされず、といってまたもちろん反駁もできない一概念にすぎない。
ではなぜこのような概念があるかといえば、それは構成的(客観的)原理として、経験を越えて我々の認識を拡大することはできないとしても、規制的(主観的)原理として我々の経験に秩序を与え、それを或る種の仮定的統一にもたらす役目をもってはいるのである。
また、規制的(主観的)な意義のほかに理念は実践的な意義をもっている。

意志の自由、魂の不死、神の存在が知識には必要でないのに理性が切に我々にもたせようとしている三つの根本原理であるとすれば、それらの本来の意義は実践の世界において、すなわち道徳上の確信にたいして存在するのであろう。


以上が純粋理性批判の概略です。
次に実践理性批判へと移ります。


つづく

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カント哲学(1)

前回カントの話が出ましたので、今回はカントの哲学について、今少し詳しく見ていきたいと思います。
今回もシュヴェーグラー「西洋哲学史」で話を進めますが、それともう一つ石川文康「カント入門」を参考します。
石川文康という人はカント研究の専門家ということで、この書も非常に解りやすく書かれています。
「西洋哲学史」ではカントの著作の順に沿って進められていますが、「カント入門」では実際にカントがたどった思索過程を基にしています。
カントは当時の哲学の学術書スタイルを優先したために、いまあるような「純粋理性批判」ができあがったということで、実際の思考過程はもっと劇的であったようです。
カントが「純粋理性批判」とそれに続く「実践理性批判」、「判断力批判」を書くきっかけになったのは、アンチノミー論であるといわれています。
アンチノミーとは二律背反のことで、相反する命題の一対を指し、普通パラドックスと呼ばれています。
カントはアンチノミーを四組あげていますが、簡単に書くと以下のようになります。


1.時間と空間は有限か無限か。
2.世界の全ては単純な部分から構成されているか、いないか。
3.普遍的な自由による因果性があるか、ないか。
4.絶対的必然的な存在者がいるか、いないか。


と、いうことですが、これは人間であれば誰しも一度は疑問に思うことです。
カントをひたすら「純粋理性批判」に駆り立てたものは、実にこのアンチノミーだったのです。
ところが、学術書スタイルの「純粋理性批判」では、このアンチノミー論は最後に出てきます。
アンチノミーの解決のためには、まず前提条件を整備するというのは分かりますが、読者は肝心のアンチノミー論にたどり着くまでに嫌気がさすということになります(難解なので)。
では、嫌気がさす前に、カントがいかにこの問題を解決したかを簡単に見てみましょう。


まず、二律背反の1番目の「世界が時間・空間的に有限か無限か」という項目が全ての問題の範型であるといいます。
そして、時間・空間は客観的な世界の固有の性質ではなく、我々の認識主観の形式であるとしたのです。
つまり「もともと、世界には時間とか空間などは無く、我々の認識の性質としてのみある」ということです。
そしてさらに、認識能力を時間・空間を構成する直観形式とカテゴリーという概念をもつ悟性形式に分けています。
そしてこれらは、現象界のみで成り立つ原則であり、神・自由・魂の不死などの問題は知りえないとしています。
次に、全ての存在を、我々の認識の世界と物自体の世界に分け、それぞれを「感性界」「英知界」としました。
人間はこの両方にまたがって存在していることになります。
感性界において認識不可能とされた神・自由・魂の不死などの問題は英知界で解決されるとしています。
即ち、英知界にある道徳律のみが、唯一到達可能な物自体であるということです。


以上がカント哲学のおおよその内容ですが、結局我々がもっとも関心のある宇宙の始まりとか宇宙の果ての問題は、時間と空間が主観の形式である以上、客観である世界には摘要できないということ、すなわち客観的世界には時間も空間もないということであり、つまり論じようがないというわけです。
これを見ても分かるように、カントは全ての謎を解いたわけではなく、依然として未知の物自体を残すことになります。


では、「西洋哲学史」(カント)の記述に沿って「純粋理性批判」から見て行きましょう。
カントは我々のあらゆる心的能力は、それ以上共通の根源にさかのぼることが出来ない三つのもの、認識、感情、意欲に還元されるといいます。
したがってカントの哲学は(批判の面からすれば)三つの批判に分かれます。
(1)認識能力 → 純粋理性批判 
(2)欲求と行為 → 実践理性批判
(3)快不快の感情 → 判断力批判
最初の認識能力が三つのものすべてに対する原理、指導的な法則を含んでいるといいます。
カントは純粋理性批判によって、人間の理性の限界を明らかにするのですが、始めに人間の認識能力を感性と悟性に分けています。
カント自身の分類に従って、その概略を示すと以下のようになります。


一 純粋理性批判
・純粋理性批判とは理性の目録であり、あらゆる認識の二つの主な要因、すなわち感性と悟性をくまなく調べる。
・直観を供給するところの感性によって我々に対象が与えられ、概念を形成する悟性によって対象が思考される。
第一に我々の感性または直観能力のア・プリオリな所有物は何であろうか。→先験的感性論
第二に我々の悟性のア・プリオリな所有物は何であろうか。→先験的分析論
※ここで用いられているア・プリオリという言葉の意味は、カントにおいては「生得的」でもなく、「(経験的に)獲得的」でもない「根源的獲得」であるといいます。
それは先なる根源を前提にしない、悟性がその自己活動によって悟性自身から獲得したという意味です。(カント入門より)


A 先験的感性論
・我々の感性的認識のア・プリオリな原理、感性的直観に本源的に具わっている形式は、空間と時間である。
・純粋数学は、空間および時間が経験的でない(ア・プリオリな)純粋直観であるときのみ可能である。
・我々は物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通じて物が我々に現象する姿を認識するにすぎない。
※ここで注意すべき点は、カントは物を時間と空間を通して認識しているといっているだけで、物の実在性を否定しているのではないということ。
我々の外部に物が存在しているということは、我々が存在しているのと同じ程度に確かであるということです。


B 先験的分析論
対象は感性によって受け入れられ、それを概念によって思考し、悟性の形式のうちで把握されることによって、受け入れられた対象に自己の自発的な活動をも加えることになります。
・分析論の最初の課題は。純粋な悟性概念(カテゴリー)を見出すことである。
・判断のあらゆる種類を考察すれば。悟性の根本概念は完全に見出されるであろう。
・これらの判断から同数の悟性の根本概念すなわちカテゴリーが生まれる。
※この部分は論理学上の問題をあつかっているので、非常に分かりづらいところですが、すでにアリストテレスがこの問題を論じており、カントはさらに厳密に改訂したといえます。
アリストテレスは悟性概念(カテゴリー)を単に経験から拾い集めているにすぎませんが、カントはこれを判断から求めています。
その判断表は以下のようになります。


・判断形式は量、質、関係、様相の四つのタイトルに分かれ、それに対応してカテゴリーも四つのタイトルに分かれる。
・それぞれのタイトルは三つの契機を従え、結果的に合計十二のカテゴリーが得られる。
(判断形式 → カテゴリー)
量  全称的(すべてのAはBである)→  単一性
    特称的(あるAはBである)→    数多性
    単称的(このAはBである)→    全体性

質   肯定的(AはBである)→      実在性
     否定的(AはBでない)→      否定性
     無限的(Aは非Bである)→     制限性

関係 定言的(AはBである)→      実体性
     仮言的(AであればBである)→   原因性
     選言的(AであるかBである)→   相互性

様相 蓋然的(AはBでありうる)→    可能性
     実然的(AはBである)→      存在性
     必然的(AはBでなければならない)→必然性


次に対象が、いかに悟性の形式のもとに包摂されるかという問題が生じます。
対象への悟性の適用は、直接的には行われず、それは二つの純粋な直観である空間と時間、とくに時間を媒介にして適用されます。
ですからカントは先験的な時間規定を先験的図式と呼び、その使用を先験的図式性と呼んでいます。
カテゴリーのそれぞれに先験的な時間規定を求めると、次のものが見出されます。
量 → 時間系列(数)
質 → 時間内容(時間における存在と非存在)
関係 → 時間順序(持続・継起・同時)
様相 → 時間総括(或時・定時・常時)


カテゴリーが図式を媒介として対象に適用されることによって成立する純粋悟性の諸原則は、それぞれのカテゴリーに対応して、次のようになります。
量 →直観の公理「全ての直観は外延量(外的な広がりをもつ量)である」。
質 →知覚の先取的認識「感覚の対象である実在的な物は内包量を、すなわち度を有する」。
関係→経験の類推「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」。
    (a)実体の恒常性の原則「現象がどんなに変移しようと実体は持続し、自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない」。
    (b)因果法則に従う時間継起の原則「すべての変化は原因と結果を結合する法則に従って生起する」。
    (c)相互作用あるいは相互性の法則にしたがう同時存在の原則「すべての実体は、空間において同時的に知覚されうるかぎり、一貫して相互に作用しあう」。
様相→経験的思惟一般の要請
    (a)経験の形式的諸条件に一致するものは可能的である、すなわち現象することができる。
    (b)経験の質料的条件に一致するものは現実的である、すなわち現象する。
        (c)現実的なものとの連関が経験の一般的な諸条件にしたがって規定されているものは必然的である、すなわち現象のうちに存在せざるをえない。


以上が悟性の原則の体系であり、これらはア・プリオリな総合判断の集大成といえます。
※「総合判断」とは主語概念には含まれない述語を、主語概念と結びつける判断であり、それに対して、すでに主語概念に含まれている概念を述語としてもつ判断を「分析判断」といいます。
「分析判断」は単に主語概念に含まれているものを確認するにすぎませんが、「総合判断」は新たにそれに付け加わったのですから、認識内容はそのぶんだけ増加していることになります。
また、「分析判断」が全てア・プリオリ(経験に由来せず、普遍性と必然性をもつ)であるのに対して、「総合判断」は基本的にア・ポステリオリ(経験に由来し、特殊的で偶然的)であり、従って普遍性と必然性がなく、学問としての形而上学とは成り得ません。
しかし、もしア・プリオリな総合判断があるならば、それこそが有意味な学的判断と成り得ます。
カントは「直線は二点間の最短距離である」という実例を示して、ア・プリオリな総合判断があり得ることを説明しています。(カント入門より)


さて、カントのこのような論理学は直接人生問題に関わるような問題ではなく、哲学を正当なものにするために、ア・プリオリな総合判断を導き出すのが主な目的だったのかもしれません。


つづく

プラトンのイデア論とカントの物自体

そろそろ忘れかけていたシュヴェーグラーの西洋哲学史ですが、途中で中断したままですので、いま一度振り返ってみようと思います。
確か、ギリシャ哲学のアリストテレス以降の哲学ということで、ストア学派辺りまで行ったと思います。
その後、新プラトン主義と続く予定でしたが、なぜか止めてしまいました。
同じ問題を長く考えていたので疲れたのかもしれませんし、新たな展開が見えなくなってしまったということもあるでしょう。
いづれにしても一年以上離れていたことになります。


さて、ギリシャ哲学では、やはりプラトンが傑出しているように私は思います。
アリストテレスは現象的な面に重点を置き、現象の背後にある真実在、あるいは魂といった見えざる存在に無関心のように見えます。
論理的整合性にこだわるアリストテレスはプラトンのイデア論の矛盾を非難します。
しかし、私はイデア論とは本来論理の外にある別次元の話であって、それをあえて論理の中に取り入れたために生ずる矛盾なのだと思います。
たとえば、カントの物自体という考え方はプラトンのイデア論と似ています。
しかも両方とも論証不可能です。
カントはプラトンのイデア論をもちろん知っているでしょうし、参考にもしていると思いますが、単に参考にしているだけではなく、積極的に取り入れているようにも思えます。
ただカントとプラトンの違うところは、カントは論理可能な世界と論理不可能な世界を分けているのに対し、プラトンは全てを同様に論じています。
カントのいう論理可能な世界とは現象界のことであり、論理不可能の世界とは世界そのもの(物自体)のことですが、論理可能な世界で全てが説明できれば、論理不可能な世界を想定する必要もないのですが、それが不可能なことをカントは厳密に証明しているわけです。
世界を整合的に説明しようとするならば、論理不可能な世界を想定せざるを得ないという皮肉な結論であるわけです。
というわけで、カントの物自体、プラトンでいえばイデアの世界は論理の及ばない別次元の話であって、心の世界あるいは実践の世界であり、これを理解するには頭ではなく心で理解する必要があるでしょう。


さて、カントの物自体には、当然多くの異論がありますが、それについては又別の機会にゆずるとして、今回はプラトンのイデア論とカントの物自体の関係について見ていきます。
結論からいえば、両方とも非常に似ているし、同じことをいっているとしか私には思えません。
逆に、カントの物自体という考え方によってプラトンのイデア論がはっきりするように思えます。

ではここでもう一度、プラトンのイデア論とは何かを思い出してみましょう。
シュヴェーグラーの「西洋哲学史」には以下のような定義がなされています。
イデアとは「多様のうちにおける共通なもの。個物のうちにある普遍的なもの。多のうちにある一。変転常ならぬもののうちにあって恒久不変なもの。」である。
ということですが、これに対してアリストテレスはイデアと個物との関係が曖昧であり、論理的に不整合であると指摘しています。
ではカントの物自体とは何でしょう。
ウィキペディア(物自体)には次のような解説文があります。
「言うまでもなく、この「物自体」という発想・概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類、すなわち、「理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるものであり、それをカントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)の枠内で表現した言葉・概念である」
ということで、カントの物自体は西洋哲学の延長線上にあることは間違いないでしょうが、ではその意味は何でしょうか。
シュヴェーグラーの「西洋哲学史」の(カントへの移り行き)という章にカントの思想が要領よくまとめてありますので、それを参考にします。
まず、カントは我々の認識能力を吟味しています。
「一切の認識は、認識する主観と外界という二つの要因の産物である。
その内の外界は我々の認識に素材(経験の材料)を与え、主観は形式(悟性概念)を与える。
もし、外界がなければ現象はありえず、悟性がなければ現象あるいは知覚は表象と成り得ない。
したがって、概念のない直観は盲目であり、直観のない概念は空虚である。」
ということですが、ここまでは当然なことを言っているわけで、いわば被写体をカメラで撮った写真を我々が見ているということでしょう。
しかし、次が問題なのです。
同じくカメラの例えで言えば、我々が見ているのは、カメラで撮った写真であって、被写体そのものではない、ということです。
ですから、被写体そのものは我々には絶対に見えず、ただそれが在るであろうと想像するだけということになります。
カントの認識論は次の三点に総括できるといいます。
(1) 我々は現象を認識するにすぎず、物自体を認識するのではない。
(2) にもかかわらず経験のみが我々の認識の範囲であって、無制約的なものに関する学は存在しない。
(3) それでもなお人間の認識が経験という自分に課せられた限界を踏み越えようとするならば、すなわち超越的になろうとするならば、それはこの上もなく大きな矛盾に巻き込まれる。


今回はカントの認識論がテーマではないので、ここまでにしておきますが、ただこれによって、アリストテレスが指摘したプラトンのイデア論の個物とイデアのあいまいな関係が、プラトンのイデアをカントの物自体に置き換えることによって、解消するように思われます。
しかし、物自体はプラトンのイデアと同様にあらゆるものに想定すべきであるのに、カントは実践理性批判において、善の物自体のみを強調しています。
後になって、カントも悪の物自体があることを認めていますが、それならばなぜ善の物自体を選ばなければならないかが曖昧です。
やはり、道徳律すら論理で証明しようとするカントの限界なのかもしれません。


思いついたことなど

前回は犬がくるくる回転している話をしましたが、私自身未だに同じところをくるくる回っていて決着地を見出せずにいます。
決着地を見出した時がこのブログの終了ですが、まだ当分終了できそうにもありません。
「凡夫のこころに決定はない」と言った一遍上人の言葉が現実味を帯びてきます。
我々の意識自体が相対的な概念によって成り立っている以上、どんなに探し回っても相対的な概念しかでてきません。
絶対的という言葉も相対的な概念です。
相対的な概念の中にいる以上、永遠に真実に到達することはできないのです。
なぜなら相対的な概念は真実そのものではなく、真実の影にすぎないからです。
どんなに自然を精巧に写し取った絵でも、自然そのものではないのと同様に、ただそれを言い表して人に伝える道具にすぎません。
相対的な概念とは他の概念を前提にした概念であって、それ自体で成立するものではありません。
全て一色であったならば我々は何も認識することは出来ず、他の色と異なる色があってはじめてその色を確認できます。
他の色と区別することによって、始めてその色の概念ができるのです。
概念、即ち言葉によって言い表すのですが、言葉にした途端に、そのものではなく、その呼名となるわけです。
その呼名、概念によって我々の意識が形成されているのです。
なぜそうなっているのかは分かりませんが、そういう宿命になっているのは確かです。
我々の意識、認識は真実を見るためにあるのではなく、我々が生きるための道具としてあるのかもしれません。
人間の知恵は強力な武器となり得ます。
しかし一方において知恵は人生の矛盾を暴き出してしまうのです。
人間は自分の肉体を拠り所としている限り、生老病死という苦から抜け出ることは出来ません。
人間は生まれて成長し、やがて老いて死にます。
人間は肉体的生存から抜け出ることが出来ないように思えます。
しかし、これはあくまで人間の相対的な概念によって分別した思考にすぎません。
真実の世界には生も死もないのです。
人間は一方において肉体的生存でありながら、一方において宇宙の本質そのものです。
なぜなら、人間は全宇宙と一体であるからです。
全てが一体ということを、華厳宗では事事無礙法界(じじむげほっかい)という言葉で言い表しています。


さて今回は思いついたことをだらだらと書いただけです。
いろいろと構想は浮かぶのですが、それを書き写すまでには至らなかったというわけです。
次回は多少まとまりのあるものを書いてみたいです。
ではまた次回。


釈迦の実践主義

前回、密教は仏教ではないと書きましたが、もちろんこれは私の解釈であって、定説では後記大乗仏教に含まれるということです。
釈迦の教えが仏教であるならば、釈迦の教えでない密教は仏教ではないというのが筋とは思いますが、釈迦の教えをさらに進めて、釈迦の教えを超えたものであるということならば一応納得できます。
もともと釈迦には偶像崇拝の概念はなく、神の存在すら認めていなかったということです。
しかも、哲学的論議すら回答、言及を避けた(無記)といいます。
その教えは、あくまで実践に則したものであり、役に立たない無用の議論については答えませんでした。
釈迦の目的ははっきりしており、この世の苦しみからの脱却です。
そして、苦の原因を人間の欲望とみて、欲望を抑えることを説いたのです。
あくまで実践主義であったわけです。
釈迦の教えというのは、意外と素朴で単純なものだったのかもしれません。


釈迦の教えは欲望論が中心ですが、かと言って欲望論に留まるものでもありません。
釈迦は哲学的議論には無記という立場であったのにもかかわらず、一方で縁起とか無我とか中道などということを言っています。
後世の人たちが、これらの言葉を掘り下げて、さらに哲学的解釈を展開していくことになるのですが、それにしてもやはり、無記とか欲望論は徹底的に考えた末の結論であったと思われます。
なぜなら、我々自身、どんなに哲学的議論を深めても、結局釈迦の結論にたどり着くからです。


人類は何千年にもわたって真理を追い求めてきましたが、いまだに結論が出ていません。
私もこのブログで何度も言っていますが、人間の思考は相対的な概念から抜け出ることはできず、どんなに推論を重ねても、出てくる答えは相対的な概念でしかありません。
絶対的なものを言い表す場合にも相対的な言葉を用いざるを得ないのです。
「究極の真理は不可説だ、とそう語っているじゃない」(哲学としての仏教 竹村牧男より)というわけです。
ですから、数学のような論理的整合性のある解答は期待できません。
数学が我々の思考の中に在るとすれば、真実の世界は我々の思考を超えたものであるといえるでしょう。
我々は真実を求めようとして、我々の思考の中を永遠に回ることになるのです。


以前私は犬が回っているのを目撃したことがあります。
何をしているのかと見ると、自分の尾に咬みつこうとしているらしい。
尾に咬みつこうとすると、当然、自分の尾も逃げることになるので、そこで、くるくると回っているわけです。
私はその後、犬がめでたく尾に咬みつくことができたかどうかは知りませんが、疲れて諦めてくれることを祈るばかりでした。


ところで「諦める」とは、本来は真理を明らかにする意味でしたが、どんなに考えても分からないので、現在の「諦める」の意味に変わったということです。
私はこの「諦める」を消極的な意味ではなく、積極的な意味で「諦めるべきだ」と言ったのが、釈迦の無記ではないかという気がするのです。


今読んでいる本「般若心経の謎(百瀬明治)」の中に興味深い言葉をみつけました。
死期を悟った玄奘三蔵がしきりに口ずさんでいた句です。
玄奘三蔵といえば、西遊記でおなじみですが、もちろん実在の人物で、中国の仏教伝来に大きな功績を残し、生涯を仏教にささげた人です。
その玄奘三蔵が死を前に口ずさんでいた句とは次のようなものです。
「色蘊は不可得、受想行識もまた不可得なり。眼界は不可得、乃至意界もまた不可得なり。眼識界は不可得、乃至意識界もまた不可得なり。無明は不可得、乃至老死もまた不可得なり。乃至菩提は不可得なり、不可得もまた不可得なり」
要するに、何も分からないということであり、分からないということも分からないということです。
不可得とはまた不可得空ともいい、分からないけれども、分からないものが真実在として在るという意だと思います。


さて、釈迦は神の存在を認めていなかったということですが、これはあくまでも人格神としての神を認めなかったということで、神的なものを全て否定したのではないのでしょう。
人間の安心立命は、神的な拠り所がなければ不可能であると私は思うからです。
釈迦が目指した涅槃とは、神的なものを覚知する境地であるのかも知れません。


つづく


プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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