生きる意味について

人生論である以上、生きる意味について考えない訳にはいきません。
ともすれば、人生論とは名ばかりで、人生の根本問題から逃げて、身近な話題に終始している向きが多いように思います。
あるいは、他人の意見ばかり紹介して、自分の考えというものを持っているのかさえ疑わしいのもあります。
もちろん、私の場合も無きにしも非ずですが。

また、人生論と銘打つからには、単に問題を提起するだけではなく、その解決まで視野に入れて考えるのはいうまでもありません。
過去の偉大な思想家たちは、皆自分の考えに信念をもっていました。
単なる理論や仮説ではなく、それはそのままその人の信念でもあったのです。
なぜなら、自分の意見の表明に際して、彼らは自らの生命の危険すら顧みていないからです。
またそうであるからこそ、人はその人の意見に共鳴するのです。

俗に、「言葉は何とでも言える」というのがありますが、正にそのとおりで、単に理屈を捏ね回したり、言葉をもてあそんだり、心にも無いことを言うのは簡単です。
哲学に於いても、それは全く無いとはいえません。
いわゆる詭弁とか、議論のための議論、相手を打ち負かすためだけの理論といったものはすでにギリシャ哲学の時代からありました。

ところで、人は哲学や人生論に何を期待しているのかといえば、それは、人間の生きる意味や生き方についてであり、如何に生きたら幸福になれるか、また充実した人生を送ることが出来るかということです。

人生が順風満帆なときは、「人は何のために生きているのか」などとは考えたりしませんが、人生に挫折したり、不幸に見舞われたり、あるいは単調な毎日に嫌気がさしたりしたときなどに「自分は何のために生きているのか」という疑問がでてきます。
そして、その解決を求めて、哲学書や人生論の本などを読み始めます。
しかし、読んでは見たものの、小難しい概念や理屈が出てくるだけで、まともな解答が得られることは、まずありません。

確かに哲学で採り上げている問題と、我々が抱えている悩みとは、すれ違っていることがあります。
そもそも哲学とは、世界の根本原理を探究する学ということで、必ずしも人生の悩みの解決を目指している訳ではありません。

ただし、ソクラテスのように自然を探究する学を否定し、もっぱら対象を人間に置いて、その魂をよりよくすることを目標にしている人もいます。
自然を探究したり、世界の根本原理を学として探究すること自体は悪いことではありませんが、我々が人間である以上やはり人間の心の問題を優先にするべきでしょう。
ソクラテスが史上最高の賢者といわれるゆえんもその辺りにあるのかもしれません。

現代科学は正にソクラテスが否定した自然を探究する学そのものであり、しかもかつてないほど徹底的におこなわれています。
はたして、現代人は生きる意味を見失い、迷妄の暗闇の中で右往左往しているのが実状です。

ところで、私の考えでは、人生の根本問題は実はそれほど複雑ではなく、ただ二通りの考え方があるだけです。
即ち、科学的な見方と宗教的な見方です。
あるいは、物質に重点をおくか、心に重点をおくか、
または、人間の動物的本能を優先するか、善意志を優先するかです。

そして、その決着もすでについているのです。少なくとも私のなかでは。
それは後者です。
ただ、宗教といっても特定の宗教を指している訳ではありませんし、宗教でなくともかまいません。
要は心の問題を解決していればよいのです。
プラトンやソクラテスあるいはカント、さらに中国では孔子や老子といった人たちの教えは宗教とは言いませんが、人間の生き方を追求しているという意味で、宗教の教えに近いのは確かです。

さて、問題は宗教は必要なことが分かっても、信じられないことです。
現代人は科学的な教育の中で育って来たために、容易に信じることができません。
科学的な見地からは、どこをどうさがしても宗教など出てこないのです。
神や仏など、目に見えない、姿形のないものを信じるということは、実証主義的な立場からは到底受け入れることは出来ないでしょう。

しかも宗教には色々な尾ひれがついています。
長い歴史のなかで、その本来の教えが曲解されることもありえます。
また、宗教が権力と結びつくことによって色々な弊害も出て来ます。

宗教にはこうした様々な問題点があります。
これらの問題をいかに克服して、現代人に受け入れられる思想体系をつくり上げられるかがこれからの課題になります。


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ニーチェを考える

ニーチェといえば、四十年以上前に読んだ記憶があります。
確か、「この人を見よ」という題名だったと思います。
それから、「ツァラトゥストラはかく語りき」というのもありました。
この題名が読みづらいので何回か練習した覚えがあります。

当時、まだ十七八の頃でしたが、人生問題に関心があったので、手当り次第に本を読んでいました。
図書館で借りて読んだのか、購入したのかは忘れてしまいましたが、とにかく、いろいろ読んだ中のひとつです。

ニーチェは当時、なぜか有名でしたので、期待して読んだのですが、結局、期待外れでした。
何が書いてあるのか、さっぱり解らない上に、その極端な表現、乾いた思想、そして何か人間味の無さをその文章から感じて、あまり好きになれなかったのです。

という訳で、四十年以上も忘れ去っていたのですが、最近、本屋さんでニーチェに関する新刊書を見つけて、意外な感じがしました。
まだ、こんな本を読む人がいるのかと。

しかし考えてみれば、若い頃、途中で投げ出したきりで、結局何が書いてあるのか分からずじまいでした。
ですので、どんなことが書いてあるのか位は知っていなければ、批判も評価も出来ない訳です。

それに、現代の思想にもかなり影響を与えているようですし、現代哲学を理解する上でも知る必要が出て来ました。

ということで、例によってまずは解説書を読んでみることにしました。
今回は、たまたま本屋さんで見つけた竹田青嗣さんのニーチェ入門という新書です。
読んでみると、なかなかわかりやすく、思想内容を的確にとらえているようです。
ただし、残念ながらニーチェの思想は、やはり私の考え方とはまったく違っていました。

ニーチェの考え方の基本は、ショウペンハウエルの継承とその展開、ソクラテス、ヘーゲル、そしてキリスト教の批判、ということです。

ショウペンハウエルについては、私も若い頃その影響を受けたひとりです。
その著作も手に入る範囲内ではほとんど読んだと思います。
思想も明快でわかりやすいし、哲学書にありがちなもってまわった言い方もない単刀直入なところが気にいっていました。
ただ、その内容についてはすべて納得したわけではありません。

そして、ソクラテス、ヘーゲルについての批判ということですが、これは、この人たちの「理論的楽天主義」に対して反対しているのだそうです。
理論的楽天主義とは、知識と理性に信頼をおき、正しく思考し推論することによって、真理に達するということだそうで、常識からいえば至極当然な考え方です。
では、なぜこれに反対しているのかというと、こういう考え方のおかげでディオニュソス的な精神が滅んでしまった、ということらしい。

これはギリシャ神話での話で、簡単にいえば、アポロン神は英知的、理性的であるのに対してディオニュソス神は情動的、感性的な象徴です。
ですから、ニーチェは人間の理性より感情を優先にしている訳です。

さて、ニーチェの批判の最大のねらいはキリスト教です。
なぜならば、ディオニュソスは酒精の神であり、陶酔、狂騒を象徴し、感情的で自由奔放な生き方を愛する。
従って、理性や道徳はじゃまものであり、知識と理性に信頼をおいたソクラテス、ヘーゲルはもとより、隣人愛や禁欲を説いたイエスキリストこそ最大の敵であったのに違いない。

ニーチェの思想はある意味で、現代人の考え方を代表しているのかもしれません。
科学的なものの見方の中で育ってきた我々は、宗教を迷信としてしりぞけ、道徳を単に社会のルールとして見、物質的な豊かさを求め、社会的な成功を人生の目的とし、出来得る限り多くの欲求を満足させることが幸福であるという考え方。

確かに、人間を単に脳の発達した動物としてみた場合では、本能に従って生きるのは当然のことであり、道徳だの神だのといった概念は不自然にみえる。

だが、そのような生き方が本当に幸福なのか。
もし、本能に従って生きることが幸福ならば、なぜ人は宗教に救いを求めたり、神という概念を創造したのか。

動物としての人間は、ショウペンハウエルによると、種族保存と個体保存の本能があるといいます。
すなわち性欲と食欲です。
そして、この欲求を満たすために、常に生存競争に勝ち抜かなければならないので、より強い力が必要となります。
人間にあって最大の力は知恵です。
人間はこの知恵によって道具をつくり、他の動物を制圧し、自然を制御してかつてない豊かさを手に入れました。
ただ、他の動物は性欲や食欲が一応満たされれば、それ以上は求めません。
しかし人間では欲望それ自体が目標となり、欲望が欲望を生み、あらゆる欲望へと変化し、それはけっして満たされることなく、ついには人間同士が戦い合い、この地上は略奪と殺戮の舞台となる。

そして、人間の知恵は同時に自分はやがて死ぬこと、欲望は果てしないこと、決して満たされることが無いこと、をあばくのです。
そしてさらに、幸福とは、実は動物としての肉体の中ではなく、人間の心の中にあると気づくことになります。

以上、ニーチェの考えよりも私の考えが中心になりましたが、以後もさまざまな角度からこの問題を考えていきたいと思います。

ハイデガーを考える

さて、ハイデガーですが、私はもともとハイデガーに興味があったわけではなく、たまたま本屋で解説書を見つけたので読んでみようと思ったのにすぎません。
しかし、二十世紀最大の哲学者といわれ、多くの知識人に影響をおよぼし、また難解といわれるその思想とはいかなるものか、そして、その主著である「存在と時間」にはどんなことが書かれているのか、知りたいと思ったのも事実です。

ところで、ハイデガーに限らず、西洋哲学の著作といわれるものは、西洋哲学上の他の論との関係が多く、その著作自体で論として成りたっていることは極めてまれです。
ハイデガーの思想といわれるものも、そのほとんどは、過去の哲学者の論説の批判や継承、あるいは改編といったことで成り立っているようです。

ハイデガー自身の著作として、作品の名に値するのは「存在と時間」のみであり、他は全て論文か講義か講演だといわれています。
しかも、その「存在と時間」も未完で終わっています。

では、ハイデガーの思想とは何なのか。
ハイデガーに批判的な人は、「その著作など、無意味な言葉の積み重ねにすぎない」といっているそうですが、それにしても、「存在と時間」はあまりにも有名ですし、その影響も大きいと聞いています。
それが一体、何処から来ているのか、そしてなぜこれほど有名なのか、疑問に思うのは私だけではないでしょう。
また、「存在と時間」が作者の真意とかけはなれた形で、一般に受け止められているということも不思議な感じがします。

さて、ハイデガーの思想は、西洋哲学上の諸問題をあつかっており、その意味を完全に理解しようとするならば、関連のある哲学者の説をすべて把握しておかなければなりません。
しかも、西洋という長い伝統の中で培われてきた文化を背景としていますので、真の意味での考え方を理解するのは、困難といえましょう。
ハイデガーの哲学が難解といわれるのは、そういったことも一因になっていると思われます。

では、その「存在と時間」に何が書かれているのか、私なりに理解した範囲でまとめてみようと思います。

まず、この本のねらいは、「存在一般の意味の究明」ということで、要するに、存在とは何か、を問うことです。
存在への問い、ということは、すでにギリシャ哲学以来つづけられていますが、それを新たに問い直そうというわけです。

本の構成としては、上巻と下巻に分かれ、上巻では現存在(人間)の分析を、下巻では存在一般の意味の究明と、西洋の存在論の歴史をふりかえるという内容になっています。

そして、この本のねらいである存在一般の意味の究明には、まず、それを問う現存在(人間)の分析が必要であるとして、その作業を上巻に当てています。

しかし、実際に書かれたのは上巻だけで、下巻は書かれていないのです。
下巻は目録としてあるのみです。
ですから、この主著は未完の本ということになります。

結局、この中途半端な書物が、しかも誤解されて、有名になったということです。
この本は、上巻だけを読んだ場合、実存主義の書と受け止められ兼ねない、ということで、たまたま時代の要請もあってブレークしたものと思われます。

それはさておくとして、では、存在とは何かという問いですが、ハイデガーは「存在は現存在(人間)が了解するときにのみある」という一見当たり前のことをいっています。
そして、ハイデガーはここで色々な言葉を作っています。
人間を現存在に、存在了解を存在企投に、世界開在性を世界内存在に、あるいは超越、等々。
そして、新しく作った概念で何を言おうとしているのか、簡単にいえば次のようになると思います。
人間は他の動物と違って、記憶や予期の働きによって、過去、現在、未来といった次元で世界を考えることができるようになり、それに適応した生き方が可能になる。
そして、人間が人間になるということは、過去、現在、未来という時間の場が開かれるということであり、それが、「現存在の存在は時間性である」という意味である、としています。

要するに、人間はその思考能力によって、他の動物と違った生き方が可能になるということだと思いますが、ただ、私がここで疑問に感ずるのは、なぜ、それが時間なのかということです。
もちろん、時間性ということもあるでしょうが、人間の思考能力はそれだけに立脚しているわけではないと思います。
たとえば、空間性ということもあり得るわけです。
時間とともに空間的な広い視野のなかで物事をとらえることも出来ます。
人間の思考を構成する要因としては、時間と空間しかないわけですから、存在は時間性であるといっても間違いではないでしょうが、ことさらそれを言い立てるのは、あまり意味がないような気がしますが。

さて、次にハイデガーはプラトンとアリストテレス以降の哲学と、それより前のヘラクレイトスやパルメニデスによって代表される思索とを分けています。
そして、後者は万物をピュシス(自然)と見、存在者の全体を自ずから発現し生成してきたものと見ていたのに対し、前者は存在者を本質存在と事実存在に分け、本質存在を優位とする見方によって、自然を制作のための単なる材料におとしめている、としています。
そしてさらに、本質存在と事実存在の概念は人間の製作行為に定位して形成されたと言っています。
ここで、制作作用という言葉がさかんに出てきますが、これは、いままでなかったものを眼前に出現させる働きという意味だそうです。
そして、人間の製作行為というのは、イデアを観取し、それをこちらに招き寄せ、眼前の材料のうちに据えるということです。
したがって、プラトン、アリストテレス以降の存在という概念は現前性であり、被制作性であるということになります。

結局、何が言いたいのかといえば、アリストテレス以来の伝統的存在概念は、非本来的な時間性を場としておこなわれる存在了解に由来するため、自然は制作のための単なる材料あるいは質料と見られるようになった。
つまり、近代の物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化はここに端を発している。
そして、今明らかにゆきづまりにきている人間中心主義的文化の転覆を図り、以前の本来的な時間性にもづく概念、すなわち、自然を生きて生成するものと見る自然観を復権する。
ということのようです。

しかし、この試みは結局挫折するわけですが、なぜうまくいかなかったのか、それは、現存在(人間)が存在を規定するのではなく、存在という視点の設定は人間の力をこえた出来事である。
したがって、人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をにぎっておこなうというのは自己撞着である。
と気づいたから、ということらしい。

大言壮語の割には、なんともお粗末な結末ですが、もっとも、著者が放棄した書をまともに論議するというのもおかしな話ですが。

さて、次に私はハイデガーの哲学の背景となっている、ニーチェやギリシャ哲学を見て行きたいと思っています。

なお、この記事は木田元著ハイデガーの思想を参考にさせていただきました。

重要ならざる哲学(2)

私が哲学に求めているのは、いかにしたら、よりよく生きられるか。
いかにしたら、人生を意義のあるものにできるか、という問いへの解答です。

そして、この問いに答えられない限り、私にとって、
重要ならざる哲学といわざるをえません。

もちろん、知的好奇心という意味での、人生の根本問題に対する研究はありえますが、そのばあい、学者の自己満足といわれても、仕方がないでしょう。

さて、ハイデガーは西洋哲学史が専門だそうで、
中でもアリストテレスの研究に重点をおいていたようです。
哲学史家としては、かなり優秀で、深い読解力をもっていたということです。

ところで、シュヴェーグラーによると、西洋哲学史とは
古代哲学(ギリシャ、ローマの哲学)と近世哲学を指しているのだそうです。
また、ハイデガーは西洋哲学という言い方は、同語反復にすぎない、
哲学とは西洋そのものである、と言っています。

確かに、インドにも中国にも哲学という呼び方はないようです。
逆に言えば、西洋哲学は世界の中での人間の考え方の一つにすぎない、
ということになるでしょうか。
たとえば、仏教にしても、孔子や老子にしても、その主題は、
人間としていかに生きるべきか、を問うことにあります。
西洋においても、哲学史からはずされているキリスト教的中世哲学はやはり、
人間の救いがテーマになっています。

西洋哲学も、もちろん、そのようなテーマを問題の中に含んではいるのですが、
アプローチの仕方が少し違うのだと思います。
人生問題への切実な問いというよりも、むしろ知的好奇心から、
といった意味合いが強いように思われます。
学として、人生の根本問題を客観的に研究する立場といえるかもしれません。

数学や自然学などと同一的な立場で、人生あるいは世界の根本問題を論じる、
ということだと思います。
そして、それが現代科学発展への土壌となったのです。
なぜといえば、西洋以外では現代的な意味での科学は成立しなかったからです。
それが良いか悪いかは、別の問題ですが、人間が科学によって強大な力を得たのは事実です。
そして、科学が人間に幸福をもたらすかどうかは、これから問われることになるでしょう。

つづく。

重要ならざる哲学

最近は本屋さんに行っても、哲学や思想といった類の書籍が
あまり並んでいないような気がします。
どちらかといえば、かるい、時間つぶしの本がやたら目につきます。
本屋さんも、あまり売れない本は置いていないのでしょう。
昔はもっと並んでいたように思いますが、これも時代の流れでしょうか。

と、いう私もここ二十年程、そういった類の本を読んでいないのです。
このブログを始めてから、急に関心が出てきたというわけです。
関心が出てきたというよりも、戻ったというほうが正確かもしれません。

もともと、私は若い頃から人生問題に疑問を持っていまして、
折あるごとに哲学書や宗教書などを読んでいました。
それが、いつの頃か、いくら読んでも解決しないのに嫌気がさし、
それまで持っていた書籍を全て処分してしまいました。

それが、最近、パソコンの練習を兼ねて、
何か書いてみようということになりまして、
もともと関心のあった人生論となったわけです。

ところで、近頃では古本屋さんというよりも、
本のリサイクル店といったような店が増えています。
時代のニーズに合っているのでしょう。
もちろん、私も利用しています。

先日ものぞいてみましたら、よほど売れなかったのか、
誰も読んだ形跡のない新書版が、格安で出ていました。
それも、同じ哲学者の解説書が二冊、もちろん別の著者によるものですが。

その人気のない哲学者はハイデガーでした。
ハイデガーといえば、現代哲学の最高峰といわれる人物で、
私も若い頃からその名は知っていました。
ただ、私はあまり関心がなかったので、読んだことはありません。
実存主義という言葉は聞いたことはありますが、
意味を深く追求するところまではしませんでした。

今回は、人生論を書いているので、参考にでもなればと思い、
二冊とも購入しました。

帰宅後、さっそく読んでみたところ、思ったとおり意味不明でした。
ハイデッガーの著作は難解で知られています。
解説書の著者も難解であると繰り返し書いています。

ただ、難解であるということは、必ずしも、
意味が深遠だからとは限りません。
単に分かりづらいという場合もあるわけです。

結局、二冊読み終えるのに、二週間ほどかかりました。
読み終えるというのは、ほぼ全体の意味が分かったということです。
私の印象では、言葉の難解さの割には、
内容はそれほど大したことを言っているわけではないような気がします。

もともと哲学というのは、数学の答えというようなものは無いのでして、
各人がそれぞれ自分の哲学をもっているわけですから、
それに共鳴するかどうかという問題になると思います。

どんなに深遠ですぐれた教えでも、自分が納得できなければ、
価値が無いと言わざるをえません。

それについては、次回に書いていこうと思います。

人生の不思議

プラトンもアリストテレスも哲学的な問いへの動機を「驚き」だとしています。
普段私達は何気なく日々暮らしていますが、一歩立ち止まって、
改めて世界を見渡せば、なんと不思議なことばかり、と気づくことだといいます。

確かに、普段あたりまえと思っている事でも、
いざ問い直すとなると答えに窮する事はたくさんあります。

たとえば、世界が存在していること自体の不思議さ。
なぜ世界は現にあるような形で存在しているのか。
世界に初めや終りがあるのだろうか。
そもそも、こんなことを考えている自分とはいったい何なのか。
自分は何処から来て何処へ行くのか。
世界の存在、自分の存在、そしてその意味、
数え上げたらきりがないほど不思議なことばかりです。
この不思議なことの発見に驚くことが、哲学的な問いの動機ということだそうです。

でも、普通の人はこういった疑問が生じても、
それに関わったりすることはまずありません。
そんなこと考えていたら、日々の生活が滞ってしまうからです。
それに、考えてみたところで、ろくな答えしか出てこないのを知っているからでしょう。

では、専門家である哲学者はどうかといえば、
これも似たりよったりで、同じ疑問を難しい言葉に置き換えているにすぎません。
まともな答えを出した人など誰もいないのです。

ですから、現に在るものは在る、として受け入れる以外に道はないでしょう。
私は日本人で、男で、誰それの子で、この時代に生まれて、等々
自分で決めた訳ではなく、気が付いたらそういうことになっていたという訳です。

なぜ、と問うたところで答えがないのは分かりきっています。
そうだからそうだ、としか言いようがありません。

普段は生活に追われて、そんなことを考えている余裕すらないのですが、
人生は順調な時ばかりではありません。
仕事にいきづまったり、恋愛に失敗したり、病気やけがや災難にあったりしたときに、
ふと、私は何のために生きているのか、と疑問に思うことがあります。

また、逆に何らかの目的が達成して一段落したときなどに、一種の空虚感におそわれることもあります。
そしてあらためて、人生とは何かを問う場面に出会います。

いづれにしても、自分で解決する以外にないのですが、先人の教えに耳を傾けたり、
尊敬する人の生き方に学ぶというようなことも必要になってくるかもしれません。

そして、それがこの日記のテーマということになります。
プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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