救われる道

我々は生きていく上で様々な疑問に突き当たります。
その最大のものは、やはり世界の根本問題でしょう。
世界の初めや終り、あるいは自分は何処から来て何処へ行くのか、といった疑問。
現象界を客観的に見る限り、世界には何ら確固とした不動の基点などはなく、すべて相対的にあるにすぎません。
正に、夢まぼろしのごとくです。

ところで、世界とはもともと仏教の言葉で、世は時間、界は空間を意味しているそうです。
ただ、仏教でいう世界とは物質界だけではなく、精神界も含めた一切現象を指しています。
我々が世界と言った場合、物質的な世界を意味しますが、仏教でははるか昔から精神界もその中に入っていたのです。

西洋では近代になってから、カントなどの認識論によって本格的に心の世界が分析されるようになりましたが、仏教では既に、竜樹や世親の中論、唯識論などによって、かなり厳密に論理が展開されています。

さて、カントによると世界の根本的な矛盾は、理性によっては解決されず、実践によってのみ、即ち心の世界でのみ解決が可能であるとしています。

仏教でも、人間の思惟は相対的な言語や文字に依るものであるから、ものの真実を捉えることは出来ないとしています。
仏教で言う、縁起とか空もその辺りのことを言い表そうとしていると思います。
縁起とは、世界の森羅万象は各々独立して存在しているのではなく、お互いに相依って存在していること。
また空とは、人間の思惟は相対的な言語や文字に依るものとして、思惟による倒錯した見方を正すことによって、真実を見ようとすること。
もちろん、これは私の解釈ですが。

要するに、真理は理性によって捉えることは出来ず、実感として体得する以外になく、したがって真理とは心の在り方を指す言葉だということです。
仏教の涅槃(ニルヴァーナ)とは正にこの境地だと思います。

それにしても、解答のない疑問がなぜ生じるのでしょうか。
どう考えても正当な疑問です。
世界とは何か、自分とは何かと問うのは当然であり、この解答無くして真剣に生きることなど出来ないはずです。
しかし解答が無いのは残念ながら事実です。
だとすれば、疑問の出し方が間違っているのでしょう。
我々の認識はあくまで相対的な言語や文字で成り立っています。
したがって、いわば虚構の世界に生きているのです。
我々が呈する疑問は虚構の世界の疑問であり、絶対的な世界の解答を相対的な言葉で受け取ろうとすることです。
と、説明する以外にないでしょう。

いずれにしても、我々は理性に基づいて生活しているのであり、理性によって日々の行動を判断し、決定しているのです。
他の動物のように、短絡的な本能や衝動によって動いている訳ではありません。
もちろん、根底にはあるでしょうが。
ですから、たとえ相対的であるにせよ理性を捨て去るわけにはいかないのです。

ただ問題は理性が他の動物と同じように、本能に奉仕しているだけなら矛盾は生じませんが、人間には動物的な本能とはまた別種の要求があるのも事実です。
たとえば、悪を憎み善を求める心、勇気とか自己犠牲、慈悲とか博愛、動物的な欲望への嫌悪感、心の清潔あるいは清浄さを求める、等々。

そして、これらの要求は動物的な本能とは全く正反対の要求であり、動物的な本能を否定するものです。
もちろん、個人差があり、全ての人が同様にあるとはいえませんが。
ともあれ、この要求は微細であり、普段は動物的本能の影に隠れてあまり表に出ることはありません(私の場合)。

さて、人間は理性(知性)によって絶大な力を得、万物の霊長となったわけですが、同時にあらゆる矛盾をも暴露してしまったのです。
生老病死などの苦が避けがたいこと、動物的な欲求を満たしても必ずしも幸福になれないこと、この世がうつろいやすくはかないことなど。

そして、ことここに至って初めて動物的な欲求以外の要求、すなわち心の要求に目を向けることになるのです。
心の要求とは前述の善への希求などですが、この心の要求そのものは動物的な欲望のように激しく表れるのではなく、静かで、穏やかな要求として、しかし確固としてあるものです。
そしてそれは、そのもの自体で顕われ出るというよりも、他のものを取り去ったときに顕われ見えて来るようなものです。

さて、この状態を如何に解釈すべきでしょうか。
人間には二通りの要求があり、一方は動物的な欲望、すなわち肉体の生存に関する欲求。
もう一方はまったくそれと正反対の要求。

前者については疑問の余地は無いように思えます。
いわば当たり前のことであり、人間も動物である限り当然の要求です。
問題は後者です。
いったい、この要求は何処からきているのでしょう。
前者は人間の個体としての意志であり、現象界に表れる他の様々な個体の意志と同様、その個体そのものの意志であるとするならば、後者はむしろ世界の本源から直接来た意志そのものといえるのではないでしょうか。

個体としての立場から見た意志と、世界全体から見た意志では当然違います。
世界全体から見れば、個々の存在の区別は消滅し、全て世界の中に包摂されて、同胞としての意志、すなわち世界の根源そのものの意志となります。

したがって、我々の中には個体として意志と、世界の根源からの意志の二通りの意志があるということになります。
もちろんこれは一つの解釈であって、どのように見るかはその人の自由です。
また、世界の根源を神とか仏、あるいは道とするかは、これまたその人の考え方によって違うでしょう。
ただ確かなのは、善の意志がまぎれもなく在るということです。
たとえわずかであるとしても。
そしてこの善の意志を実践することによって、その本源を覚知することができるのです。

我々は個体としての意志に従っている限り、生存の苦しみから逃れることは出来ません。
善の意志を実践し本源(心源)を覚知することによってのみ、あらゆる苦悩より脱却できるのです。

ところで、カントは認識論的な立場から道徳律という概念に到達しましたが、一方人間としての切実な問題、すなわち苦しみや不安からの脱却といった観点が欠如しているように思われます。
また、意志という概念はあまり登場しません。
意志といえばショウペンハウエルを思い出しますが、しかしショウペンハウエルの意志の中には善の意志という考え方は無いようです。
もともと少なくて見えなかったのかもしれませんが。

さて、話は戻りますが、我々は理性に基づいて生活しているのであり、理性によって日々の行動を判断し、決定している訳ですから、最終的に選ばれる道は当然、善への意志の遂行となるでしょう。

実際、我々は不安や恐怖心から神や仏に救いを求めるのであり、そしてそれ以外に救われる道があるとは思われません。

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人生の根本的な矛盾

人生の根本的な矛盾とは、誰でも一度は考えたことがあるような素朴な疑問から、人間の生死とか、生きがいといったような深刻な問題まで、様々です。

私自身、十代後半にこの問題に突き当たり、以来六十才を過ぎた今日に至るまで、脳裏の片隅から離れることは無く、折あるごとに問い続けて来ました。
けれども、いまだ決定したとは言い難く、なんとか生ある内にこの問題の決着をつけたいと思っているところです。

ただ、全く解決していないという訳ではなく、少なくとも先人が残してくれた書物のおかげで、多くの人たちの考え方を参考にすることが出来ました。
しかし、過去の賢人たちの教えも、皆全て一様ではなく、それぞれ微妙に喰い違っています。
いったいどれが真実の教えなのか、見極めるのは至難の業です。
残念ながら、まだ私自身が完全に納得できるような見解には出会っていません。
自分に起きた疑問は、自分で解決する以外にないのかもしれませんが。

ところで、真実の世界に矛盾は無いとするならば、あるのは我々の心の中ということになるでしょう。
また、矛盾と一口で言っても、論理的な矛盾もあれば、生きがいといったような心情的なものもあります。

もちろん我々にとって重要なのは、いかに生きたら心の平和が得られるかということですが、人間が理性に基づいて行動する以上、論理の矛盾も避けて通る訳にはいきません。

さて、人生の根本的な矛盾を哲学として考察した代表的な人はカントです。
いわゆるカントの二律背反です。
二律背反とはアンチノミーの訳語で、相反する命題の一対を指します。
普通パラドックスと呼ばれています。

以下はカントの二律背反についての私の覚書ですが、簡単に記しておきます。

カントは二律背反を四組あげています。

1.時間と空間は有限か無限か。

2.世界の全ては単純な部分から構成されているか、いないか。

3.普遍的な自由による因果性があるか、ないか。

4.絶対的必然的な存在者がいるか、いないか。

カントはこのパラドックスをどう解決しているかというと、
その解答もパラドキシカルな表現になっています。

まず、二律背反の1番目の「世界が時間・空間的に有限か無限か」という項目が全ての問題の範型であるとしています。

そして、時間・空間は客観的な世界の固有の性質ではなく、我々の認識主観の形式であるとしたのです。
つまり「もともと、世界には時間とか空間などは無く、我々の認識の性質としてのみある」となります。

そしてさらに、認識能力を時間・空間を構成する直観形式とカテゴリーという概念をもつ悟性形式に分けています。

そしてこれらは、現象界のみで成り立つ原則であり、神・自由・魂の不死などの問題は知りえないとしています。

次に、全ての存在を、我々の認識の世界と物自体の世界に分け、それぞれを「感性界」「英知界」としました。
人間はこの両方にまたがって存在していることになります。

感性界において認識不可能とされた神・自由・魂の不死などの問題は英知界で解決されるとしています。
即ち、英知界にある道徳律のみが、唯一到達可能な物自体であるということです。

以上、カントの解説書を参考にしながら要約しました。

結局、カントは理性(知性)では問題は解決されず、実践(道徳律)においてのみ解決可能であるとしています。
しかし、考えてみれば当然のことで、我々が問題にしている「生きがい」とか「心のやすらぎ」あるいは「死の恐怖」といったものは理屈の世界の話ではなく、心の世界であり、生き方を問うものだからです。
いわば実践に関することなのです。

我々の理性(知性)の内で矛盾が生じたのは、認識の世界に心の問題を持ち込んだからだと思います。
さらに言うならば、我々の認識の世界は、あくまで言語や文字による相対的な世界にすぎず、いわば生きるための道具であり、正しい道を指し示すことは出来るが、実際に歩んで体得し実感するのは心の領域ということになるでしょう。

したがって、真理と言われるものも、実は理論ではなく、実践をとおして得られる心の平安を指しているのではないかと思います。

歎異抄と念仏

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは親鸞上人の弟子、唯円の作とされる歎異抄の中の有名な言葉です。

でも、現代人がこれを聞いたら、えっ!と首をかしげるのではないでしょうか。
「善人ですら往生できる、まして悪人が往生できないはずはない」なにを馬鹿な、何かの間違いでは、と思うのは当然です。
しかし、作者が続いて述べているように、これは他力本願の奥義なのです。

実は、この逆説的な言葉は一般向けに述べられたのではありません。
歎異抄自体が門外不出とされ、公開された文書ではないのです。
なぜなら、一般の人に誤解をまねく恐れがあるからです。

実際、他力本願という言葉自体がすでに誤解されて、他人任せのような意味で使われています。
もっとも、他力本願の真の意味を理解するのは容易ではありませんが。

Yahoo百科事典によると
~他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲の力(働き)、本願とは一切衆生の救済を約束する仏の願いをさす。~
とあります。

が、これだけでは何のことか分かりません。
これを完全に理解するにはやはり法然上人の選択本願念仏集を読まなければならないでしょう。
読んで分かればの話ですが。

法然は日本を代表する聖人の一人です。
「幼少にして比叡山に登り、十七歳にして天台三大部六十巻を渉猟し、天台、真言以下八宗の教義を究め、さらに一切経を七たび繰り返し読み、注釈、伝記に至るまで究めつくし、知恵は日月のごとく光り、学徳は先師を超えた。」と、これは当時書かれたある書物の一節です。

この法然は膨大な仏教の教理をたった六字にまとめてしまったのです。
すなわち南無阿弥陀仏です。
まず、仏教の教えを聖道門と浄土門に分け、それぞれ難行道、易行道とし、聖道門をわきにおいて、浄土門を勧め、さらに念仏による正行以外の行をことごとく雑行として排斥した。

これに対しては、当時より多くの批判がありました。
中でも代表的なのは、当時高僧の誉れの高かった明恵上人の催邪輪です。
そして、日蓮上人。
実は、前述の法然を紹介したある書物とは日蓮の立正安国論です。
もちろん、法然を褒めたたえるために書かれたのではなく、法然の選択集を批判するためです。

ところで、法然は一切経を七たび繰り返し読み、それでも出離の要道を得られなかったが、ついに善導の観経疏を見るに及んで、はたと目が開き、以後一切の教えを捨て、ただひたすら念仏に帰依したといいます。

しかしここで一つ疑問が生じます。
一切経を七たび繰り返し読む間には、当然、浄土三部経も善導の観経疏も見ていたはずです。
それなのに、なぜ気が付かなかったのでしょうか。
これはおそらく、法然自身がその心境に達していなかったのだと思います。
読んではいたが納得していなかった、自分の考えにはなっていなかったということです。
ですから、観経疏を見るに及んでということは、法然自身がその考えに到達したということ、従って、善導に依るとは言いながら、むしろ法然自身の考えと一致したというのが正確ではないでしょうか。

そしてさらに疑問があります、明恵上人が説く菩提心や聖道門が、仏教において重要なことを、法然は百も承知しているはずである。
それにもかかわらず、あえて捨てたのは、いかなる理由によるのかということです。
私も若い頃、選択集を読んだことがありますが(現在は手元に無い)、その辺りの本意がよく分かりませんでした。

法然は民衆救済を主眼に置いていたので、難しい教理や修行法など理解できない一般の庶民でも往生できる道を模索していたは確かです。

また、明日をも知れない人間にとって、修行して悟りを得るというのはあまり意味が無いかも知れません。

しかしそれだけではなく、決定的に法然を念仏に向けさせたのは何でしょうか。
おそらく、私は「信」ではないかと思っています。
仏教の究極として、あらゆる行に優先するものとして、信を見たのです。
信とは絶対なるものに身をまかすということです。
我執を捨て、己の一切を仏にゆだねることによってのみ、正覚を得るという考え方。
これは仏教のみならず、あらゆる宗教に共通した考え方です。
さらに言うならば、信は宗教と哲学の分水嶺でもあります。
信のあるなしが、宗教と単なる理論の世界とを分けます。

それではなぜ、信が重要な意味を持つのでしょうか。
仏教では究極の教えとして、無我を悟り、我執を去るというのがあります。
しかし、この我執を去るというのが難しいのです。
自力では不可能です。
なぜならば、自力ということ自体がすでに我執を立てているからです。
しかも我執を捨てない限り、安心立命はあり得ない訳ですから、では一体どうしたら良いのでしょうか。

結局、信以外にはあり得ないのです。
絶対なるものに身をまかすことによって、初めて我執を去ることが出来ます。
ですから、念仏とは解脱への最短距離といえるかもしれません。

それでは自力による善行為は全く無意味なのでしょうか。
やはりそうではなく、心の世界はそう単純に割り切れるものではなく、あくまで力点の相異によるものと思われます。

しかも、信の重要性については、浄土宗のみならずあらゆる宗派、宗教に一致した見解であるのも確かです。
ただその対象をどこに求めるか、あるいはどのような行を優先するか、またどの教えを根拠にするかによって違いが出てくるものと思われます。

人それぞれ、考え方が違いますが、目的は心の安定を得ることですので、自分に合った教えを採れば良い訳です。

さて、法然は念仏を学問の無い凡夫のための教えとしながらも、実は、これこそが究極の教えであると確信していたと思います。

ただ、念仏以外の行を全て無意味とするのは行き過ぎのような気がします。
前述の「善人なおもて、、、」と同様、極端な表現方法なのかもしれませんが。

念仏は特効薬ではありますが、普段の養生も大切です。
歎異抄にも、薬あるとて毒のまず、と言っています。

念仏はすぐれた教えであることは間違いありませんが、誤解されやすいのも確かです。
でなければ、歎異抄も書かれることは無かったでしょう。

人生不可解

明治の初期 当時学生だった藤村操さんという人が、「人生不可解」の一文を残して、華厳の滝に飛び込んだ、という話は有名です。
どのようないきさつで自殺にまで至ったのかはよく分かりませんが、当時の知識人にとってかなりセンセーショナルな事件であったらしく、その後多くの人によって語られています。

私が藤村操さんのことを知ったのは私がまだ二十歳前後のときですが、人生問題に強い関心があった時期でしたので、やはり衝撃を受けたのを今でもおぼえています。

藤村操さんの遺書「巌頭之感」によると「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く、不可解」とあります。

当時の私も同じような問題で悩んでいました。
それが自殺によってしか解決出来ないということに驚いたのです。
凡庸な性質の私はそこまで深刻にならなかったせいか自殺もせずにその後四十年以上も生きています。

では なぜこの事件が重大な意味をもつかといえば、誰でもが持つ正当な疑問で、しかも誰もまともに答える事が出来ないからかもしれません。

藤村操さんの先生でもあった夏目漱石の著作(行人)のなかに、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか、この三つ しかない。」という言葉がでてきます。
正に、人生問題を突き詰めて考えるならば、これ以外に方法がないでしょう。
それほどこの問題は深刻なのです。

ところで、ほぼ同時代にロシアでは文豪トルストイが同じような問題で悩んでいました。
その顛末についてはその著作「懺悔」で詳しく語られています。
結局トルストイは宗教に活路を見出すわけですが、既成のキリスト教には飽き足らず、自らの信仰を築いていくことになります。

さて、人生の根本問題は、考え始めると深刻ではあるのですが、しかし全ての人がこのような問題で悩んでいるわけではありません。
あまり関心を持たない人がいます。
関心を持たないというよりも、現実の生活に追われて考えている暇などないというのが事実でしょう。

それに、考えても結論が出るわけではありませんので、あまり深く考えないという生き方もそれなりにうなづけます。

仏教ではもとも「諦める」という字は、真理を明らかにするという意味だったのですが、結局分からないので、現在の「諦める」という意味に変わった、ということです。

それはともかくとして、ただ、一生考えないで済ませればそれに越したことはありませんが、いつか必ず深刻な問題に直面するときが来ます。
病気、老い、死、はもとより、人生には様々な不幸が待ち構えています。

そうしたときのためにもある程度の心構えは必要でしょう。
そしてそれは私自身の問題でもあるのです。

科学と宗教

科学と宗教というテーマで思い出すのはパスカルのパンセです。

パスカルといえば学生時代にパスカルの原理を習った記憶のせいか、科学者としてのイメージがありました。

それが、たまたま本屋で手に取ったパスカルのパンセの前書きに科学者からキリスト教に回心とかいう文字があったので、その言葉に引かれて読み初めたのです。

その頃は宗教といえば、過去の遺物か迷信ぐらいに思っていたので、数学や物理の天才パスカルが回心したということに意外さを感じました。

現代は科学全盛の時代でロケットによる月面着陸を初めとして、正に奇跡が科学によって次々に成し遂げられています。

今でこそ科学の発展に疑問視する向きも出て来ましたが、私が若かった四十年程前はまだ、大気汚染、オゾン層破壊、核廃棄物、それに地球資源の枯渇などの問題がそれほど深刻ではなく、人間の幸福は科学の発達によって達せられるものと信じて疑わなかったのです。

現在でも科学技術の発展は続いています。
現代社会は科学技術無くしては成り立ちませんので、科学技術の発展の停止はすなわち現代社会の死を意味します。
たとえどんな結末を迎えようと科学技術を捨て去るわけにはいかない状況なのです。

ちょっと話が逸れましたが、パスカルを読んだ当時、二十歳前の頃でしたが、人生問題に強い関心を持っていましたので、何か解決の糸口になるのではないかと期待した訳です。

さて、パスカルのパンセですが、残念ながら今手元に本が無いので、当時読んだ記憶をたよりに書いていますが。
確か、パスカルの同時代の人の哲学批判が主な内容だったと思います。
インターネットのYahoo百科事典でパスカルを調べてみると次のように書かれています。

~パスカルの死後、多くの遺稿が残されていたが、そのおもな部分は「キリスト教弁証論」のための断片的覚え書きで、本来、不信仰者を信仰に導く目的のために起草されたものであった。~

私が科学と宗教というテーマでパスカルを出したのは、科学者であるパスカルがなぜ信仰の道に入ったのか、その過程が重要だと思ったからです。

さて、科学技術のもたらした弊害について述べましたが、実は私は別の面からも疑問をもっていました。
こころの問題です。
科学は人間に幸福をもたらすのかどうかということです。

ただ、幸福とは結局個人の価値観になりますので、もし、物質的な豊かさを幸福と考えるならば、科学技術は有効な手段なるでしょう。

日本は戦後、無一物の時代から懸命な努力の甲斐あって、現在まがりなりにも豊かさを手に入れました。
で、人々は満ち足りているのでしょうか。

「衣食足りて礼節を知る」ということわざがありますが、私もこの言葉に異議を立てるつもりはなく、確かに生きる上での最低限の物質の確保は必要でしょう。
飢えや寒さで苦しんでいる人には、人生の意義だの世界の根本問題などと理屈をこねている暇はありません。
現実の苦痛を除くことこそ先決問題です。
そういう意味では、人生問題など贅沢な悩みかもしれませんが、だからといって決してあなどれる問題でもないのです。

しかも現代の文明社会は決して盤石な上に築かれているのではなく、いわば暴走列車に乗っているようなもので、止めることも、飛び降りることもできず、ただ突き進むしかありません。
そしてその先に何があるかは神のみぞ知ると言う訳です。

ところで、科学は人間に何をもたらしたのでしょうか。
その端的な例は人口です。
18世紀の産業革命以降に世界人口の増加ペースが早くなってきて、19世紀末ではおよそ16億人だった世界人口は、現在では70億人にまで急増しています。
正に「産めよ増やせよ地に満ちよ」が現実のものとなり、地球上に人間が満ち溢れています。
しかし、喜んでばかりではいられません。
自然界にはバランスというものがあります。
生物はその環境状態によって異常繁殖するときがありますが、決して長くは続かないのです。
自然の摂理によって修復されるならまだしも、自然そのものを破壊して自ら墓穴を掘る可能性がおおいにありそうです。

さて、近頃では科学と宗教の歩み寄りとか共存とかがさかんに言われるようになってきました。
ひと昔前では科学は宗教を無視していたし、そしてさらに前ではキリスト教は科学を敵視していました。
しかし今ではおたがいに相手を無視することが出来なくなっています。
宗教の方では科学を無視するにはあまりにも巨大になっていますし、また、科学の方でも科学によって世界の全ての問題を解決することが出来ないことが分かってきたからです。
人間の幸福とか生きる意義、あるいは価値観といったような人生問題に関しては科学はまったくのお手上げです。
また、科学はあくまで客観的な現象世界のみを対象にしているので、現象が由って立つ所以、すなわち現象の根源の問題については対象外です。
我々が最も関心のある世界の根本問題に関して科学は無力なのです。

一方宗教でも多くの問題をかかえています。
その宗教が広範に及び信者が多くなるにつれ、同じ信者の中でも考え方の違う人達が出て来きます。
ひとつの宗教でも様々な宗派に分かれ、そのおのおのが自らの正統性を主張します。
そうした場合、いったいどれが真正の教えなのか、一般の人がそれを見分けるのは至難のわざといえるでしょう。

それにもうひとつ、今在る宗教に現代の深刻な状況を克服し、正しい道を指し示すだけの説得力があるかということです。
たがいに自説を主張し、他宗を謗ることのみに汲々としているようでは望むべくもありません。

さて、話が飛び飛びでまとまらなくなりましたが、幸福論あるいは宗教や科学の意義などについてはまた別の機会にゆずるとして、私の結論から言えば、科学技術は人間の幸福追求のための手段あるいは道具でしかないということです。
幸福とは何かという問題は宗教あるいは哲学の領域であり、最終的には個人が決定すべきことだと思います。

悲観主義

よほどの能天気でない限り、人生において一度も悲観主義に陥らない人はいないでしょう。
真剣に生きようとしている人ほどその挫折も大きいものです。
悲観主義とは単にこの世のむなしさを嘆いているのではなく、真の生き方を求めての反動と言えなくもないのです。
悲観主義者は暗に悲観主義の否定を求めているのかもしれません。

さて、悲観主義者といえば、この人を思い浮かべます。
もちろんショウペンハウエルです。

彼は三十歳位で主著「意志と表象としての世界」を著し、それ以後は主にその注釈と補遺で過ごしたといわれています。

彼によると、世界は徹頭徹尾、我が表象であり、表象と共に世界は存在し、表象の終焉と共に世界は消滅する。

しかし、表象は世界の一面にすぎず、他の一面は意志である。
それも何ら合理的な目的を持たない盲目の意志である。

世界を突き動かしているのは正しくこの意志であり、有機物から無機物に至るまで万物はことごとく意志の顕現である。

人間には執拗なまでに生に駆り立てる生きんとする意志として顕われる。
そして、それは正に弱肉強食の世界を現出し、人は人にとって狼になる。

人間の歴史は闘争と殺戮の繰り返しであり、強者が弱者を支配することによって成り立っている。

これは、考え得る中で最悪の世界である。
と、結論づけています。

彼の悲観主義はこのような世界観の当然の帰結と言えるでしょう。

この偉大な悲観主義者は悲観論を書きながら、七十すぎまで生きたということです。

まあ、悲観論については、別に難しい本を読まなくても、日々痛い思いをしつつ生きているわが身をかえりみれば、すぐに納得できるでしょう。

ところで、悲観論はショウペンハウエルの専売特許と言う訳ではありません。

はるかに古くから悲観主義を徹底的に展開している人たちがいます。
ほかでもないそれは仏教です。
仏教の経典をひも解けば、いたるところで厭世的な言葉にあふれています。

仏教は御存知のようにブッタゴータマを開祖として、その教えを後世の人たちが、継承発展させた宗教です。

したがって、仏教はブッタの教えというよりも、仏教教団の教えの一群とでも言った方が良さそうなほど多岐に亘っています。
中には同じ仏教かと疑いたくなるほど教義に相異があるものもあります。

いずれにしましても、仏教は悲観主義というよりも、厭世観からの、その救済を主眼としていますので、単なる悲観主義とは違います。

同じことはキリスト教にも言えるでしょう。
キリスト教の象徴が十字架であることを思えば、その根底に悲観主義があるのは間違いないでしょう。

そもそも、宗教はこの世の苦しみからの脱却を意図しているわけで、この世が素晴らしく満ち足りているなら、なにも天国だの極楽だのを求める必要はないわけですから。

仏教については近年になって改めて見なおされているようです。
先にあげたショウペンハウエルやトルストイも関心を持っていました。
仏教が注目されるのはその哲学性だといわれています。
確かに、竜樹の空観論や世親の唯識論などは、宗教というよりも哲学に近いような気がします。

宗教に哲学性が必要かどうかはともかくとして、キリスト教でも哲学が無い訳ではなく、トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を大幅に取り入れることによって、その教理を大成したのです。
彼は、「信仰に至るまでの前提として哲学があり、最終的には神の啓示が必要である。」と、言っています。

私が思うに、仏教もキリスト教もその根底では同じような考え方ではないでしょうか。

仏教の論者達も最終的には認識を超越した絶対的な存在である真如から顕われ来る如来との迎合をめざしているのです。

いずれにしても、悲観論無くして、宗教は生まれないのは確かです。
悲観主義は、真実の道への第一歩と言えるかもしれません。


死について

人間にとって、死ほど忌まわしいものはありません。
考えることすら、出来れば避けたいところです。
もし、人間に死が無かったとしたら、宗教も哲学も生まれなかったでしょう。

この世に確かなものなど何一つ無いといわれる中で、皮肉なことに、死だけは確実にやって来るのです。
この死に対して、人はどう対処しているかというと、嫌なことはなるべく考えない、見ない、聞かない、といった消極的な方法ではないでしょうか。
考えても分からない、避けられない、となれば、考えない事こそ最善の方法と言えなくもありません。
ただ、パスカルの「考える葦」ではないですが、考えることこそ、人間の尊厳と偉大さがあるのならば、やはり、理性によって克服すべきではないでしょうか。

では、死とは一体何かといえば、科学的、客観的に見れば、ただのありふれた現象で、生があれば、死があるのは当然のことです。
言わば、自然の成り行きであり、むしろ死がないとしたら、そちらの方が一大事です。
でも、自然界の動植物、あるいは他人に関しては、そう言えても、こと、自分に関してはどうでしょう。
はたして、冷静でいられるでしょうか。

まあ、それはともかくとして、それでは、なぜ死がそんなに忌み嫌われるのでしょうか。
まず第一に考えられるのは、死には痛みが伴なうということ。
病気でも、事故でも、あるいは自殺でも、原因は何であれ肉体的な苦痛を伴います。
ただ、現在では薬物による安楽死などというのもありますし、苦痛を伴わない方法も無い訳ではありません。
次に考えられるのは、財産を失うこと。
長年、蓄積してきた財産を自ら使うことなく、人に譲るのは耐え難いという人もいるでしょう。
もっとも、もともと無い人には関係のない話ですが。
次には、愛する人と別れなければならない、というのもあるでしょう。
これも、愛する人がいればですが。
さらに、ただ漠然として死が怖いという人がいるかもしれません。
長年住み慣れたこの世から、まだ見ぬあの世へ旅立つのは不安です。
しかし、考えてみれば、生まれて来る前はあの世にいた訳ですから、もと居た場所に戻るだけの話です。
ただ、その記憶が無いだけですが、それは無の無たる所以ですから仕方ありません。
多少の不安はあるにしても、故郷に帰ると思えば、それほど不幸である理由はみつかりません。
そして、最後に、人間は本能として、生まれた時から、すでに死の恐怖心を持っている。
と、いうのがあります。
これは、人間に限らず、全ての生物に共通の本能で、動物は死を知らないのにも関わらず、死から逃れようとします。
植物においても、生きようとする意志がある以上、死を避けようとするでしょう。
そもそも、死の恐怖心がなければ、世界が現在ある様な姿には成っていません。
生物が容易に死んでしまったら、個体の保存も種族の保存もあり得ないからです。

さて、そいういう訳で、死の恐怖心には何ら合理的な根拠はなく、単に本能によってあるのみということになります。
しかし、本能によってあるということは、逆に言えば、完全に無くすことは出来ないということを意味します。
ところで、死に対する受けとめ方は、人により千差万別です。
平静を保つ人もいれば、精神に異常をきたす程ショックを受ける人もいます。
この違いはどこから来るのでしょうか。
もちろん、その人の性格にも依るでしょうし、普段の考え方の違いもあるでしょう。
宗教を持つ人と持たない人でも違うでしょう。
いずれにしましても、死の恐怖心を完全に無くすることは出来ないまでも、最小限にすることは可能だと思います。

さて、古代ギリシャの哲学者エピクロスは、「賢者は死を恐れない。何故ならば、私が生きている間は死は来ない。死が来た時には私は存在しない。従って、死は私に関係ない。」と、言っています。
確かに、もっともな話ですが、根本的な解決とはいえず、慰め程度にしかならないかもしれません。

ところで、再三、カントを採り上げていますが、今回もまた参考にさせていただきます。
これは、前に「人生の根本的な矛盾」の題で書いた中の一部です。
「カントは全ての存在を、我々の認識の世界と物自体の世界に分け、それぞれを感性界・英知界としました。
人間はこの両方にまたがって存在していることになります。
感性界において認識不可能とされた神・自由・魂の不死などの問題は英知界で解決されるとしています。
即ち、英知界にある道徳律のみが、唯一到達可能な物自体である。」

今回は、これを私なりに解釈して次のようにしました。
「人間は感性界おいては肉体を持つ個体として、その欲望に支配される存在にすぎないが、英知界においては人がその善意志(愛)の中に在るとき、全世界の一部として、即ち神に属する存在であり、従って不死であり自由である。」
人間には、もともと善なる意志があるが、個人としての欲望の影に隠れて、表に出ることはまれです。
しかし、肉体はいずれ消滅するものであるし、我々の意識も肉体と共に消滅します。
消滅するものに執着することによって苦悩が生じます。
その執着を断つことによって、善なる意志が顕われ出ることになり、従って、魂の不死、自由を体得することが出来るという訳です。

さて、理屈はともかくとして、我々が実際に死を恐れない状況とはいかなる場合でしょうか。
まず、考えられるのは「生の苦痛が死の恐怖心を超えたとき」というのがあります。
これは、どんな不幸もそれ以上の不幸によって消えてしまうという当然の話です。
次に「人間が興奮状態に在るとき」は死の恐怖を感じないことがあります。
何らかの原因で極度に精神状態が昂ったときには死の恐怖を忘れてしまいます。
たとえば喧嘩や事故、あるいは戦争や災害にあったときなど。

しかし、これらの場合は単に理性や感情が麻痺しているに過ぎず、理性によって死の恐怖を克服したとはとても言えません。
では、冷静な理性に基づいて、しかも安らかに死を迎えることが出来る場合とはどのようなときでしょうか。
それは人間が確固とした信念に基づいて行動しているとき、たとえ他人からみて間違った考え方と思われようとも、その人自身が納得していること、そして己の生命よりその信念の方を優先している場合です。
たとえば、家族や恋人などの愛する人のため、戦争状態においては国のため、あるいは名誉のため、昔では主君のためなどというのもあったでしょう。

この様にいろいろな心の状況が考えられますが、しかしいづれの場合でも神仏に対する信仰心には及ばないでしょう。
なぜならば、他は自分以外の全ての人を対象にしている訳ではなく、ある人のためではあっても、それ以外の人のためではないからです。
真の宗教において、正しい信仰心を持つことにより死の恐怖心が完全に消滅するのは確かです。
それは過去の聖人の証を俟つまでもなく、身近な人にも見受けられるからです。
そして、この信仰は万人に対する愛が前提でなければならないでしょう。
自分の宗派のみを認め、他人の宗派を排除するなどというのは論外です。

確かに信仰心によって、死の恐怖心から逃れることが出来ます、しかし全ての人が信仰心を持っている訳ではありません。
宗教にはいろいろ問題がありますので、宗教を見分ける目が必要になってくるでしょう。

ところで、昔から言い古された「人として歩むべき正しい道」、己の良心に恥じない生き方を我々は知っています。
長い歴史の中で培われてきたこの生きるための知恵は、また安らかに生涯を閉じるための知恵であるのかもしれません。

神は存在するか

「神はどこにいるの?いるなら見せてくれ」と、無神論者が聞けば、「神はそのおろかな質問をしているあなたの心の中にいる」と、有神論者は答えるかもしれません。
さらに、この答えに付け加えるなら「求めざる者には見えない」と、しましょうか。
キリストも言っているでしょう「求めよ、さらば与えられん」と。

さて、神の議論をする前に、神とは何かを明確にしておかなければなりません。
そもそも、神という名は人間が付けたもので、本来人間の認識を超越した言葉や文字で言い表せない真実在のことを指しているのです。
なぜ言葉や文字で言い表せないのかというと、言葉や文字で言い表そうとすると、とたんに有限な存在になってしまうからです。
言葉や文字は、対象を分けることによって成り立っているのです。
しかし現象界の物事は厳密にいえば、何一つとして分けることは出来ません。
別々に独立して存在しているものなど何も無いからです。
仏教ではこれを縁起と言っています。

神とは本来、言葉や文字では言い表せないのですが、それでは他の人に指し示すことも、自分の意識の中に取り込むことも出来ません。
ですから、あえて名をつけているのです。

人間は文字や言語によって思考しているのですから、人間の考えは全て相対的であるということになります。
絶対的なものを言い表す場合にも、相対的な言語を用いています。
我々の思考はことごとく相対的であり、決してその外には出られないのです。

ただ、科学のように相対的な思考の範囲内であれば、その外に出る必要はありません。
ではなぜ、思考の外に絶対的なものを想定する必要があるのかといえば、相対的な思考では首尾完結しないからです。
相対的な言葉をいくらつなぎ合わせたところで、この世界の森羅万象をからめ捕ることはできません。
(たとえば、二律背反のように)ですから、否応なく想定せざるをえないのです。

当然、想定するものは神であるとは限りません。
カントの物自体、ショウペンハウエルの盲目の意志、老子の道、古代インド哲学のアートマン、考え方や表現の違いはあっても、その意味しているところは共通のようです。

ところで、ショウペンハウエルの盲目の意志は別にして、皆、道徳と深く結びついています。
道徳そのものを指している場合もあります。
「キリスト教の神は愛である」という表現などは、明らかにこころの在り方、即ち、世界の本体としてではなく、人間が正しい道を歩むことによって得られる心の充足感を意味していると思います。
愛なくして道徳はあり得ないからです。

同じことは仏教でも言えます。
確か、華厳経で善哉童子が求道の果てにたどり着いた教えが慈悲だったと思います。
我々は世界の根本原理というと、理論や現象の本体のように感じますが、
実は、「こころの在り方こそが真理である」と、言えるかもしれません。

カントは「英知界にある道徳律(善意志)のみが、唯一到達可能な物自体である」
と言っていますが、これは言い換えれば、人が善意志(愛)の中に在るとき、対象としての神ではなく、神そのものになっている、と言えなくもありません。

そして、最後に一言付け加えるならば、実は我々は皆神を知っているのです。
古今東西いかなる場所でも、言葉は違えど、神という概念は人々に自然に受け入れられているし、子供でも神をすぐに理解します。
我々の背後に在って、理屈を超えたものとして、善なる意志として、そして最後の拠り所として、皆神を知っているのだと思います。
プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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