性と食

人生には不可解なことが多いですが、その中でもこれほど不可解なことがあるでしょうか。
はずかしいだけならまだしも、卑猥、わいせつ、淫行、とまで言われる行為がなんと人間が誕生する原点とは。
人生がすばらしく、祝福されるべきならば、なぜその出発点となる行為が卑しいのでしょうか。
その行為なくして、絶対に人間は誕生しえないはずです。
もし、誕生の原点が卑しいのであれば、それに続く人生もまた当然卑しいものとならざるを得ないでしょう。
はたして、人生そのもが、生きるに値しない軽蔑すべきものなのでしょうか。

さて、この重大問題に対して考えられる道は二つです。
卑しいと思うのが間違っているのか、それとも人生はすばらしいものではなく、むしろ嫌悪すべきなのかです。

確かに、この行為は、どうひいき目で見ても、美しい行為とは言い難く、まして尊厳に満ちているとはとても言えません。
実際に夢中になって行っている当人同士はいざしらず、はたから見たら不快に感ずるでしょう。
もちろん、人前でする行為ではありませんが。

ところで、性と食は人間の欲望としての双璧をなしています。
では、一方の食欲の方はどうでしょう。
食事している姿は美しいとは言えませんが、他人から見ても別に不快感を感ずるほどではありません。
しかし、特に立派な行為とも言えません。
ただ、自分の空腹に耐え、他人に食物を与えるならば、その行為は称賛に値するでしょうけれど。

さて、話は飛びますが、性欲と食欲のどちらがより強力でしょうか。
もちろん、年代や空腹の度合いによって違うでしょう。
こうした研究結果はあまりないようですので、自分で試してみる以外にないかもしれません。
が、当然、性欲の方に軍配が上がるものと思われます。
なぜなら、時として、日頃の高邁な理性を狂わせ、夜も眠られないほどの衝動が他にあろうはずがないからです。

と、ここまで考えを進めたところで、思い当たるふしがあります。
性欲があまりにも強いために制御するのは困難であるということ。
家族のつながりや、友人との信頼関係を破壊したり、また人間社会のルールや、道徳まで無視するほどの衝動をはらんでいるということ。
いわば、人間社会にとって危険極まりない欲望であるということです。
こうした欲望は当然ながら、警戒しなければなりません。

そのような訳で、性欲に対して、一種の偏見が生じたのではないでしょうか。
普段、温厚な人でさえ、獣に変えてしまうほどの欲情を、忌み嫌うのは当然の成り行きです。
ですから、性欲そのものの罪ではなく、それがあまりにも強力であるがゆえの誤解に基づく感情といえるのかもしれません。

とすると、冒頭に掲げた疑問は、我々の偏見ということで、疑問は氷解したと見てよいのでしょうか。
残念ながら、そうではなさそうです。
確かに、それも一因ではあるでしょうが、それだけではなさそうです。
もっと深い何かがあるような気がします。
次回にそれを見ていきたいと思います。


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苦痛という鞭

馬や牛を動かすには鞭が必要ですが、人間を動かしているのも苦痛という鞭です。
人間の行動は全て苦痛が動機である、と言うと反論も多いと思いますが、残念ながら事実です。
人間も動物である以上、性欲と食欲が最も基本的な要求となっています。
性欲も食欲も欲望ですが、それが満たされない場合は苦痛です。
ですから、根本は苦痛ということになります。
また、芸術や学問など、純粋に精神的、知的と言われるものも、暇人が退屈しのぎに始めたにすぎません。
もちろん、後にそれを職業にする人もでてきましたが。
いずれにしても、退屈は馬鹿にならない苦痛ですし、職業は生存欲を満たすために必要です。
満たされなければ、これまた苦痛というわけです。

性欲も食欲もそれが満たされない場合は非常に大きな苦痛となります。
他の動物では餌をさがすのに一日の大半が費やされているでしょう。
人間も食わんがために、いやいやながら職業についています。
人間と動物の違いを強いてあげるなら、動物は空腹が満たされれば、餌を求めませんが、人間は将来を予想して、食物をため込んだり、財産を増やしたりすることでしょうか。
それともう一つは、欲望自体が目的になり、性や食を快楽として追求しだすことです。
したがって、より多くの快楽を享受するために、必要以上にため込んだり、土地や権力を欲しがるようになります。
そして、それに伴って、精神的な苦痛も肥大化することになります。

要するに、人間は苦痛のかたまりであり、それを癒すことのみに生きているようなものです。
それが証拠には、苦痛は日常であり、快楽は一瞬の出来事であるにすぎません。
快楽とは、苦痛が一瞬の間是正されることですが、次の瞬間には新たな苦痛に支配されます。
快楽は積極的なものではなく、あくまで苦痛が一瞬消えた状態です。
ですから、苦痛な状態こそ正常であり、苦痛の無い状態はむしろ不自然であるといえるでしょう。
もしも不幸にして、衣食住が全て満たされた場合、人間は何もすることが無くなり、空虚あるいは退屈が訪れるからです。

空虚あるいは退屈は、決してあなどることはできず、自らすすんで苦痛を呼び込むことさえするのです。
気晴らしも、趣味程度ならまだしも、さらに刺激を求め、本来持っている欲望に火をつけ、その結果、破滅へまで進むこともめずらしくありません。
すなわち、賭博や喧嘩、飲酒や麻薬、不倫や性犯罪、その他近所のいさかいから戦争に至るまで、メニューは豊富です。

もし、地球上に重力が無かったら、人体は飛散してしまうでしょう。
もし、人間に苦痛が無かったら、全く動かないでしょう。


生きる意味について(2)

はたして、犬や猫は、生きている意味など考えているのでしょうか。
どう見ても考えている風はありません。
とすると、考えるのは人間だけということになります。
どうも、犬や猫は、動物としての本能だけで生きているようです。
人間も動物の一種ですから、本能だけで生きていれば、生きている意味など考えなくてもよい訳です。
万物の霊長とはいっても、人間は徹頭徹尾、動物です。
他の動物よりも多少知能が発達しているおかげで、威張っていますが、やっていることは同じです。
ではなぜ、生きている意味などという七面倒くさいことを考えるのでしょうか。
もっとも、そんなことは考えないという人もいるにはいますが。

人間は知恵のおかげで、他の動物よりも優位に立ち、今では地上の生物の支配者を任じています。
しかし知恵は諸刃の剣であり、一方において動物的生存の無意味さを暴露してしまいます。
希望は打ち砕かれるためにあるということ、幸福は幻想であり、不幸は現実であるということ、そして最後は苦痛と共に死が待っているということ。

動物にも死の恐怖心はあるでしょうが、それは死に直面したときに限られているでしょう。
人間にあっては、生きている限り、頭から離れることはありません。
人生には幾つもの艱難が待ち構えていますが、それをみごとに乗り越えたとしても、最後に死が待っています。
これほど、人生の意気をくじくことがあるでしょうか。

生きている意味を考える、などという生やさしい問題ではなく、いわば悲痛な叫びです。
さて、いったいこの苦情をだれにいえばよいのでしょうか。
自分をこの世に送り出してくれた両親といえども、いわば自分と同類です。
そんな質問をしてみたところで、ただ唖然とするばかりでしょう。
また、まわりを見渡しても、それに答えてくれそうな人は居そうにありません。
皆、自分の生活に汲々としていて、とてもそんな疑問など眼中にあるとは思えない人ばかりです。

結局、書物などで、専門家や人生の先輩、あるいは過去の偉人と言われる人たちに解答を求めることになります。
しかし、どれもこれも自分と同じ疑問を発するのみで、納得のいく解答を得られることはありません。
同病相憐れんだところで、問題は解決しませんので。

それにしても、我々の常識から考えれば、世界が現にあるのですから、その製作者なり設計者、少なくともそれを意図したもの、あるいは原因があるはずです。
それとも、この世界は突如として無から生じたとでもいうのでしょうか。
そんな非常識なことがまかり通るなら、いったい常識とは何なんでしょう。

しかし、残念ながら、この非常識なことは事実であり、これを受け入れざるを得ないのです。
ですので、我々の常識こそ事実無根であり、真実はいわば、何でも有りの世界なのです。
要するに、どう考えようと自由というわけです。
世界の創造者を神としようが、あるいは、ビックバンによって生まれたと言おうが、無限の彼方より存在していたと思おうと、まったく自由です。
どうせ分からないのですから。

問題はどう考えたら、こころの安定が得られるかということです。
迷っているのもこころ、答えを求めているのもこころ、であるならば、こころが納得すればよいわけです。
たとえ荒唐無稽な考え方であろうと、こころの平安が得られるならば、それはその人にとって真理であるといえるでしょう。

世界は神が創造したと言えば、現代では子供にでさえ相手にされないでしょう。
「何を馬鹿な、神など人間が造り出した物語にすぎない」という返事が返ってくるかもしれません。
確かに、神は人間が造り出した呼び名です。
名前や言葉には、普通、それを指し示す人なり物なり現象なりがあるはずです。
しかし、神にはそれらしき対象がありません。
現実には存在しない、人間の単なる空想の産物にすぎないのでしょうか。

しかし、実は神には根拠があるのです。
それは、こころです。
こころが求めているのです。
存在しないものをこころが求めるでしょうか。
この世で唯一確かなものは、自分のこころです。
その他のものは、全て夢まぼろしにすぎない、と言ったらびっくりするでしょうが、突き詰めて考えるとそういうことになるのです。
こころが納得するのならば、全て解決ということになります。
自分の死に際して最終的に直面するのは、自分のこころですから。

死ぬと無になる?

人間は死ぬと無になるといいます。
我々はそれで一応納得しています。
それでは、無とは一体何でしょう。
無とは、普通、数字のゼロを思い浮かべます。
しかし、数字のゼロは他の数に対するゼロですから、ゼロが有るということです。
無ということも、有に対する無ですから、無が有るということです。
しかし、無が有るとは普通言いません。
無になるというのは、無という状態になるのではなく、何も無いことです。
何も無いということは、無いということも無いのです。
したがって、有るのは有だけです。
ですから、人間は死んでも、無にならない。

人間が無にならないとしたら、一体何になるのでしょう。
有が無になることはないわけですから、当然有でしょう。

しかし、ことはそう簡単ではない。
有も無に対する有だから、無がないとすると、有もない。
有無が無いとすれば、生死もない。

そもそも、有無も生死も我々の意識の中だけの話です。
意識を失えば、有無も生死もへったくれもありません。

問題は我々の意識の中で、いかに整合性を保つかということです。
意識の外の話は我々に関係ないのです。

さて、生死が我々の意識の中だけの話であるならば、実際に起こる死はどう解釈したらよいのでしょうか。
肉体に変化が起こることは確かです。
今まで動いていたものが動かなくなるわけですから、動いていたとき、マイナス、動かなくなったとき、イコールの答えが、何処かへ去ったことになります。
肉体が分解してしまうのですから、当然意識も消えてしまいます。
我々は意識のない状態を知っています。
眠りに、気絶、そして生まれる前、知っているというよりも、空白があるだけですが。

この場合は記憶の無い状態を、無と言っているわけですから、記憶のある状態に対する無となります。
したがって、無という状態があるということになります。
いかし、人間が死ぬということは、記憶のある状態もない、つまり比較する主体自体がないわけですから、有無自体が消滅してしまいます。

有無自体は意識の中だけでの話で、真の無は意識の外にあります。
真の無は認識することが出来ないし、想像すらできない。
無を捉えようとすると、とたんに有無の無、すなわち、有に対する無、有限な無になってしまいます。
意識が働いている限り、我々は相対的、すなわち有限な世界から抜け出ることは、出来ません。

意識が停止したときが、真の無の状態であり、有無を離れたことであり、したがって生死もないということになります。
ただ、眠り、気絶、死、は意識が停止した状態ですが、意識とは無関係です。
意識的に、眠ったり、死んだ状態になることは出来ません。
意識を意識的に停止することによって、意識の無い状態を意識的に作り出す。
もしかしたら、これが座禅の奥義かもしれません。
しかし、だとしたら、あまり意味があるとは思えません。
一時的に無の状態になったところで、元に戻れば、元の木阿弥になってしまうからです。
もちろん、座禅の奥義はこのようなものではないでしょう。
死して生きる、と言われるように、己を全て捨て去った後、顕われ出る命を感じ取ることだと言われています。

さて、この意識、自分の意識と思っていますが、実はその構成している要素は、ほとんど他人のものです。
我々は生まれてから、この方、周りの人から、言葉や知識、そして情報を得て今日にいたっています。
この中で、自分独自で考え出したものはどれだけあるでしょうか。
おそらくほとんどないでしょう。
せいぜい、概念の組み合わせを変える程度でしょう。
ですから、たとえ自分の意識が消え去ったとしても、失うものはほとんどありません。
私は日本語をしゃべっていますが、私が日本語を考え出したわけではありません。
私が死んでも日本語が消え去るわけではないのです。

それはともかくとして、有無を離れ、我々の認識を超越した状態を、我々はどうしても想定せざるを得ません。
それを仮にXとするならば、このX無くして、我々の意識の整合性を保つことが出来ないのです。
人生の根本問題を追及していくと、最後は必ずこのXに突き当たります。

結局、我々の認識は有限であり相対的であるとしか言いようがありませんが、例えて言うなら、我々の認識は、自然を描いた絵のようなもので、どんなに似ていようと、自然そのものではありません。
自然そのものは、あくまでXなのです。

そして、さらに重要なことは、我々自身が自然そのものであり、我々の本質自体がXであるということ。
自分とは何か、を追求していくと、その追求している自分自身は認識できないことが分かります。
我々が認識出来るのは、認識するものの対象であり、認識するもの自体は見ることが出来ません。
認識するもの自体はXなのです。

さらに言えば、実は不可知なXこそ真実在であり、我々の意識、すなわち認識こそ虚構であるということ。
したがって、有無も生死も、我々の意識の中でのみ通用する言葉にすぎず、真実在には、あらゆる言葉の概念もあてはまりません。

我々が差別相対的な意識を離れ、己の本分に帰するとき、真実在を覚知することが出来ると言われています。
このことを、臨済録では繰り返し述べています。
すなわち、よけいなことを考えなければ、それがそのまま絶対的な世界であるとし、あれこれ迷って、真実を追い求めている当の自分こそ真実在そのものであるとしています。
また、一遍上人はその語録の中で、「万法は一心であるといっても、その一心はみずからその本性を顕現することはない、自分の目で自分の目を見ることができず、また木に火の本性があるといっても、その火がその木を焼くことができないようなものである。」続けて、「大円鏡智の鏡を近づければ自分の目を見ることができるし、別の火をもってすれば木を焼くことができる。」そして大円鏡智の鏡と、別の火とは、とりもなおさず名号(念仏)であるとしています。
ここで言う自分の目とは、自分の本性のことであり、木を焼くとは、煩悩を焼き尽くすということです。

さて、人生の先達たちもこのように、壁に突き当たり、それを乗り越えようとして苦心してきたわけですが、その方法や見方については、またそれぞれです。
あるものは念仏によって、またあるものは座禅によって、さらにまたあるものは加持祈祷によって、その佳境に至らんとしたのです。
宗派によって、教えや行法は違いますが、要は目的地に到達できればよいのですから、歩いて行こうと、車で行こうと、船で行こうと、はたまた飛んで行こうと、何れでも差しつかえないわけです。

私個人としては、老子の道のような、漠然とした考え方の方が合っている気がします。
すなわち「夫れ物の芸芸たるも、各々その根に復帰す。根に帰るを静といい、これを命に復るという、云々」といった、万物の始原への回帰思想です。

いずれにしても、人生の根本問題の解決への道は、この壁を避けては通れないようです。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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