性と食(3)

さて、前回は自然は無慈悲であり過酷であるという話でしたが、確かに自然は美しく雄大ではありますが、一面では非情で冷淡な世界でもあります。
動物においても弱肉強食が当たり前であり、そこには何ら感情の介入する余地すらなく、淡々として遂行されているのです。

人間社会でも同様に、強者が弱者を支配することによって成り立っています。
ただ人間の世界では、力関係が他の動物と違って、より複雑になっています。
多勢に無勢というように、個人の力よりもいかに味方を増やすことのほうが重要になってきます。
個人の力などたかが知れているのであり、数の力には到底太刀打ちできないからです。
体力的に劣る人間が他の動物を制したのは、知恵と共に人間同士が組むということにあると思います。

それはともかく、自然界においては冷厳として意志が遂行され、自然の法則により物事が展開していくのです。
そこには、人間の情の介在する余地など無く、ただひたすら流転していくのみです。
自然界のどこを見渡してみても、神や仏の意志など無いかのごとく、少しの情愛すら感じられません。
人間が災難に遭遇しても、自然は同情するどころか、海では鮫が、空からは禿鷹が、陸ではハイエナが、今や遅しとまちかまえているのです。
さらに自然による災害は何ら予告もなく、突如として多くの生命をうばいます。

この意味では、自然は神が創造したものであるとか、贈り物であるなどという考えは成り立たなくなるでしょう。
神がかくも無慈悲な自然をつくり上げることはありえないからです。
では神はいったいどこでなにをしているのでしょうか。
正義や良心はどこにあるのでしょう。

それは、まぎれもなく人間の心のなかにあると思います。
なぜなら、もののあわれを感じ取り、救いの手を差し伸べるのは人間だからです。
人間こそ正しく神のすみかであり、神の意志の遂行者であるのです。

とは言うものの、人間の心の中には神のみがいるわではありません。
むしろ神は影の薄い存在と言わざるをえません。
人間の心のなかで最も幅をきかせているのは自然の意志、即ち動物としての本能です。
人間も動物だからです。

さて、人間の本能の基本は性と食であり、その他はそれぞれそこから派生したものにすぎません。
すなわち個体保存と種族保存の意志が根底にあり、そこからその他もろもろの欲求が生じていると見てよいでしょう。
そしてこれらの欲求は、人間が自然の一部として存在している限り、自然の意志の流れの中にあるといえます。

こうしてみてくると、人間のなかには相反する二種類の意志があることになります。
一つは自然の一部としての動物としての意志。
そしてもう一つは心底より顕われ来る慈愛の意志。

人間も他の生物と同様に大自然のなかの一部としてその身体は自然の法則に従っています。
一方において、こころのなかには良心があり、微かではあるが強く、確実な声が一筋の方向を指し示しています。

さて、ここで最初の疑問を振り返ってみましょう。
性欲はなぜ嫌悪、あるいは不道徳などとされるのかということでした。
そして、その疑問に対する一つの答えが見えてきました。
それはこの相反する二種類の意志の相克によるものではないかということです。
すなわち、性欲は自然界に属する代表的な意志であり、人間の心情あるいは良心などとは相容れないということです。

ただ、なぜ二通りの意志があるのかは分かりません。
しかし、共にそれ以上遡って言及出来ない、絶対的な意志であることは確かです。

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性と食(2)

ショウペンハウエルによると、性欲は種族保存のためであり、食欲は個体保存のためで、それぞれ盲目の意志の顕われだそうです。
ショウペンハウエルは世界の本質を意志としており、しかも何ら目的も意味も有しない盲目の意志としています。

ショウペンハウエルはともかくとして、性欲が種族保存のためであるならば、個体保存の食欲よりも、優位であるべきです。
なぜなら、自然にとって個体、すなわち個々の生命よりも種族保存、すなわち種の存続の方がより重要だからです。

したがって、自然界においては、性欲は食欲よりも優位であり、より強力な欲望として顕われることになります。
個人の利害得失を無視してまで、その意志を貫こうとする衝動もこれで一応の説明がつくかもしれません。

他の生物も事情は全く同じで、普段用心深く、人間の気配を感じると、すぐ逃げ出す昆虫でさえも、死の危険を忘れたかのごとく、性行為に没頭している姿を目にします。
自然界において生殖行為は当然のことであり、これなくして生物は存続し得ないのです。
人間とて例外ではあり得ない訳で、何ら特別視する理由は見当たりません。
ただし、あくまで人間が動物である限りでの話ですが。

自然界において、なぜこのような意志があるのかは、誰も答えることは出来ません。
現にそうである、としか言い様がないのです。
ちょっと話が逸れますが、この何故という疑問は人生問題を考える上で、頻繁に出て来ます。
なぜ生きるのか、なぜ自分は存在するのか、なぜ男と女がいるのか、なぜ世界は現にあるように在るのか、等々、数え上げたらきりがありません。
そして、これら全てに答えはありません。
カント風に言えば、それ以上遡って推論出来ない、世界の第一原因に属する問題ということになるのでしょう。
そしてこれらは、問題の中に、意味とか意義などの価値観を含意している場合がほとんどです。
おそらく、意味とか意義に関しては内面的、あるいは心の領域に属する問題なのかもしれません。

さて、生殖行為自体は自然な行為であり、何ら嫌悪すべき理由はありません。
ではなぜ、恥ずかしい、卑猥な行為と見なされるのでしょうか。
考えられる理由としては、まず、あまりにも強烈な衝動として表れるので、生活の秩序を乱す恐れがあるということ。
また、生殖行為は子孫を残す行為ですが、必ずしも子を産む目的で性行為をするわけではないこと。
結果的に子供が出来るかもしれないが、それよりも性交自体を目的とするということ。

他の動物でも、子孫を残そうとして行っている訳ではなく、単に本能のまま、衝動に駆られて行っているにすぎないでしょう。
ですから、人間のみが性交を目的にしたとしても非難すべきことではありません。
しかし、問題は子供が出来た場合、育てられる環境であるかということです。
それが無いのに、子供を生んだ場合、その子供が悲惨な目に会うことは火を見るより明らかです。

自然界においては、生まれてきた子供が悲惨な目に会おうと、あるいは死のうと自然はお構いなしです。
その中の数人、いや数匹でも生き残れば充分という訳です。
動物はただ、生殖のみに専念しているのです。
運がよいもの、あるいは、強いもののみが生き残っていくことになります。
もちろん、動物といえども子を守ろうとする本能は強く、むしろ近頃の人間様よりも忠実といえるかもしれません。

自然界ではこのように、下手な鉄砲も数撃てば当たる方式で、子孫を残そうとしている訳ですが、だからと言って種族存続に特に力を入れているわけでもなさそうです。
この辺りが自然界の自然界たるゆえんで、一方において、人智を超えるほどの精密さで、生物を造っておきながら、いとも簡単に生命を奪ってしまうのです。

自然自体は決してやさしいわけではなく、無慈悲、無感情であり、過酷でさえあります。
しかも、何らかの意思があるにもかかわらず、一定の方向、目標を持たない(ショウペンハウエルの言葉を借りれば)盲目の意志です。

さて、次回も話を続けたいと思います。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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