善と悪(1)

善と悪とは、人生において最も重要で、最も曖昧な言葉です。
自分を悪人だと思っている人は少ないでしょうが、善人だと思っている人も少ないでしょう。
自分を善人だと思っているとしたら、かなり楽天的な人でしょう。
あの親鸞上人ですら、自分を極悪人であると称しています。
もっとも悪人正機を説いている浄土宗では、一般的な意味での善悪とはちょっと意味合いが違うかもしれませんが。

さて、映画やドラマ、あるいは小説などでは、勧善懲悪ものが主流で、最後は正義が勝つというところで幕を閉じるのが普通です。
そこで観客、あるいは読者は拍手喝采して一件落着となる訳です。
もし、正義が負け悪が勝利したとすれば、後味の悪い不快な気分が残るでしょう。
こうしてみると、やはり我々には善なる心があるということでしょうか。
少なくとも悪を憎み、善を称賛する人が多いのは確かなようです。

ところで善悪というと法律のことが頭に浮かびますが、法律とはルールであり約束事ですから、約束を守らないことが悪ということになります。
ですから必ずしも道徳上の善悪と一致するとは限りません。

古代中国の思想家荀子は「人間の本来の性質は悪であり、善とは後天的につくられたものである」と、いわゆる性悪説を説いています。
そして、「礼」によって善へと向かわせるべきであるとしています。
韓非子は荀子の思想をさらに展開して「礼」ではなく「法」による人間の制御を説き、法家思想の大成者となりました。

人間は本来悪であるから、法律によって規制しなければならないというのは確かにそのとおりのような気がします。
人間が皆善人であれば、法律はいらないかもしれません。
しかし、残念ながら全ての人が善人とは限りません。
映画やドラマでも必ず悪役が出て来るではありませんか。
「人間は本来悪」というのも極端な話ですが、社会の治安を考えれば、法によって取り締まることも必要でしょう。
いずれにしても、古代中国のみならず、法律の根底には性悪説があるようです。

一方、孔子の教えの継承者である孟子は性善説を説いています。
すべての人間の心には本来善への可能性、即ち「仁」「義」「礼」「智」の四徳を内包しているといいます。
国は刑罰によって治めるのではなく、善へ導くことによって治める、徳による政治を理想としていました。

さて、これらの人たちは、いずれも中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派であり、時代の要請もあって、国の統治に関する思想が主題になっています。
ですから、人生の根源的な問いというよりも、いかに国を治めるかという政治論的な側面が強いといえるでしょう。
善とは治であり、悪とは乱であるという荀子の主張がそれを端的に表しています。

ところで、性善説と性悪説どちらが正しいのかという議論は今日でもよく取り上げられます。
もちろん、善と悪の解釈の仕方や見方によって違ってくるでしょうが、一般的には、どちらも生まれながらもっているというのが正解でしょう。

「ジキル博士とハイド氏」は御存知のように、人間がもつ善悪の二面性を突いた小説です。
普段は理性によって抑えられている悪なる心を、自らが発明した薬で解放してしまうという話です。
高名な学者で紳士であるジキル博士は、自分に潜む悪人としてのハイド氏に変身するわけですが、薬を服用しているうちに抑制が利かなくなり、最後は悲惨な結末を迎えることになります。

さて、この小説では薬によって悪人に変身するわけですが、でも人間は薬など飲まなくても、その気になりさえすればいつでも悪人になることは出来ます。
悪の方が自然であり、善のほうが不自然だからです。
我々が悪といっているのは、実は人間の動物的本能に根差したものなのです。
自然界では弱肉強食は普通のことです。
動物が獲物を捕るのをためらっていたら、餓死するのみです。
ですから、人間が悪人になるには、良心を捨てればよいだけです。

映画やドラマでは、最後は正義が勝つことになりますが、自然界で最後に勝つのは悪ということになります。
なぜなら、悪人とは生存欲の強い人であり、良心が欠如している人だからです。
動物としての生存には良心はいりません。
良心は、動物としての欲望を抑制しようとします。
自然界の意志とは全く逆の方向に向いているのです。
なぜ人間に良心があるのかは不明ですが、在ることだけは確かです。
ただ、全ての人に在るのかどうかは分かりません。
私は他人の心の中に入ってはいけませんので、自分から類推するだけです。
しかし、このブログを読んで下さる方は、間違いなく良心の備わった人であると思います。
なぜなら、良心の無い人はこんなブログなど見向きもしないでしょうから。

次回につづく
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人生問題の究極とは

人生問題をとことん追求していくと、神という概念に突き当たります。
ただし、推理推論の結果導き出されるわけではありません。
人間の知性によって導き出される結論は不可解です。
藤村操さんの「巌頭之感」に書かれているとおり、「曰く、不可解」です。
人間の知性の延長線上には神という概念は出てきません。

ではなぜ神という概念に突き当たるのかといえば、人間の不可知な部分を神と称しているからです。
ですから、正確にいえば人間が突き当たるのは不可知な領域ということになるでしょう。
不可知ではあるが、それがなければ世界そのものが存立し得ないものです。
たとえば、世界は人間が創ったものではありません。
最近の科学ではビックバンによって宇宙が始まったとされていますが、ではその先はいったい何だったのでしょうか。
無から突如として生まれたとすれば、もうすでにそこで論理の整合性から逸脱しています。
また、無限の過去より続いているとするならば、始まりは無いということになり、永遠に有であるということになります。
もちろん、科学でいう宇宙とは我々の認識し得る範囲を指しているのでしょうが。
いずれにしても、人間の認識には限界があり、不可知な領域が取り巻いているのです。

ところで、もし不可知な領域がなく全てが明らかだったらどうでしょうか。
世界の原因と結果が全て認識し得たら、それはおそらく死んだ世界でしょう。
なぜなら我々の認識は有限だからです。
我々は感覚器官を通して物事を認識し、さらに言語に置き換えて思考しています。
ですから、世界の真実の姿ではなく、我々が作り上げた仮構の世界を見ているのです。
つまり、我々は生命そのものを見ることが出来ず、その影を認識するにすぎません。
我々にとって明らかな世界とは、実は生命の無い無機質な世界なのです。

話は変わりますが、人間機械論などという議論があります。
人間をどう見ようと勝手ですが、機械には当然スイッチがあります。
では人間を動かすスイッチを押すのは誰でしょう。

ただここで問題なのは、人間が機械のように見えなくもないということです。
これは我々の認識自体に由来していると思われます。

そもそも、認識するとは物事を区別することです。
区別することによって、物事が固定された言葉や文字になります。
我々は言葉や文字によって思考しています。
ですから、我々の認識は区別し固定された概念によって形成されています。
ということは、我々は現象そのものではなく、自分で作り上げた概念で思考していることになります。
なぜなら、現象そのものには区別など無いからです。
たとえば生と死。
現代の医学でも、どこまでが生で、どこからが死かで問題になっていますが、これを厳密に定義することはできません。
なぜなら、境界をつけようとしているのは我々の認識であって、現象界そのものには境界など無いからです。
もし境界線を引こうと思っても、その地点は無限に分割し得るからです。

さて、話をもとに戻しますが、人生が不可解であるというのは以上のような訳で、真実の世界と我々の認識とのミスマッチによると思われます。
ですから、我々が抱く疑問や矛盾は全て認識上の構造によるものということになります。

繰り返しますが、我々は事物を固定した概念として捉えます。
現象は言葉や文字によって他と区別され、静止した状態として把握されます。
いわば真実の世界の影であり、虚構の世界です。
我々が言葉や文字による概念によって作り上げた世界観に不可知な領域が出来るのは当然のことです。
ただし、真実の世界といっても、我々はそれを認識することが出来ません。
それを言い表そうとすると、途端に相対的になってしまうからです。

仏教の維摩経の中に、主人公である維摩詰に文殊師利が真実の道を問う場面があります。
文殊師利はすでに「一切の法に於いて、言うこと無く、説くこと無く、示すこと無く、識ること無し。諸の問答を離るる」という説を述べています。
そこで、今度は維摩詰が答える番になる訳ですが、ところが維摩詰は沈黙したまま一言もしゃべらない。
これが答えなのです。
これが古来「維摩の一黙、饗雷のごとし」と言われる場面です。
一言でもしゃべれば相対的になってしまい、真実から離れてしまうからです。

さて、冒頭で述べた神という概念は、単に不可知な領域を指したものではなく、真実の世界であり、我々の本源として絶対的な世界を言い表していることは言うまでもありません。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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