トルストイの人生論を考える

トルストイの人生論に関心を持つ人は少なくないとみえて、私の書いた「宗教家としてのトルストイ」までついでに見てくれる人もいるようです。
前にも書きましたが、私がトルストイの人生論を読んだのは二十歳前後の頃でした。
トルストイは五十歳を過ぎてから人生の根本的な矛盾に気づき、その恐怖に襲われるわけですが、私はすでに二十歳前後で同じ問題で悩んでいたのです。
私もトルストイと同様に、自分がおかしくなったのではないかという不安にかられました。
トルストイの人生論を読んで、私の疑問が正当なものであると知って安心したのです。
しかし、安心はしたものの、問題が解決したわけではありません。
人生論はその後も繰り返し読んではいましたが、疑問が全て解消されるところまではいきませんでした。
当時はまだ若かったので、トルストイのいう「動物的自我の理性の従属」とか「自分より他人を愛する者には死の恐怖心は無い」などという考えにはついていけない面もあったのです。
それに、肝心の死の問題がはっきり理解できませんでした。
死は迷信であり、存在しないといっても、それがなぜなのかが分かりませんでした。

今から考えれば、分からないのは当然だったかもしれません。
トルストイがこれを書いたのは五十八歳の時でした。
私は現在、その歳をはるかに越えていますが、いまだにこの問題の決着がついていません。
それほどこの問題の根は深く、容易に脱出することは出来ないのです。

では、人生の根本的矛盾とは何なんでしょうか、トルストイや私だけが抱えている問題などではなく、人間全てに関わる大問題のはずです。
誰でも死の恐怖心はあるでしょうし、何らかの悩みを持っていない人はいないでしょう。
人生は苦悩の連続であり、わずかな希望にしがみついて生きてみたところで、最後はみじめな死によって幕が閉じるのは分かりきったことです。
なぜ自分がこのような不合理な状態に置かれているのか、その解答を求めるのは当然のことです。

トルストイは人生論において、これらの全ての問題に答えているわけではありません。
古くから言われている道徳の再確認とその重要性を強調することが主なテーマとなっています。
なぜ、このような道徳律があるのか、なぜ世界が存在するのか、私とはそも何なのか、神は存在するのか、といった疑問にはあまりふれていません。
この書は、トルストイが自ら体験した人生問題の悩みと、その克服にいたる過程の論述ですが、人に説いて聞かせるというよりも、自分に言い聞かせているような節が見受けられます。
その考えの基本はキリストの教えで、カントやパスカル、あるいはショウペンハウエルなどの考えが参考になっているようです。

さて、この書でトルストイが言わんとしていることは次の二点です。
「動物的自我の理性の従属」と「他人を愛する者には死の恐怖心は無い」ということです。
この考えは確かに正しいし、真理であると思います。
人はこれを実践することによって、生死の悩みから脱却出来るかもしれません。
「動物的自我の理性の従属」とはトルストイ独特の表現ですが、人間の動物としての本能や欲望を、理性によって抑制するといった意味合いでしょう。
しかし、これは人間であれば誰しも、程度の差はあるもののやっていることです。
現代社会は本能のままに生きていけるほど甘くはありません。
トルストイのような上流階級ならいざ知らず、一般の人たちは自分の生活を維持するのがやっとであり、そのために日々耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで働いているのであり、「動物的自我の理性の従属」などと言われなくても、充分に抑制されているのです。

次に「自分より他人を愛する者には死の恐怖心は無い」とは確かにその通りですが、では現実に自分より他人を愛することが出来るでしょうか。
他人とは自分以外の全ての人でなければなりません。
特定の人であるならば、自分を愛しているのと大して変わらないからからです。
猫の首に鈴をつける話(イソップ物語)ではないですが、すばらしい考えではあるが、実行困難であると言わざるを得ないでしょう。
私自身にあてはめて考えても、かなり難しいことです。
もちろんその場になってみなければ分かりませんが、義務とか強要してすべきことではなく、あくまで自発的な行為として顕われなければならないでしょう。
さらに言えば、「自分より他人を愛する者には死の恐怖心は無い」という考えには、死の恐怖心を無くしたければ、他人を愛せよということになり、自分の安心のために他人を愛するという、結局は自愛に基ずいているということになります。

と、こんなことを言ってるから、私はいまだに迷いから抜け出せないでいるのですが。
しかし現実に、自己犠牲によって他人の命を救ったという話は耳にします。
そういう人たちは、他人を愛せよと百万遍唱えるよりは、間違いなく神に近いでしょう。

さて、若い頃人生論を読んで、死の問題に関する部分が解りにくかったのですが、今回この項を書くにあたって、何十年かぶりに読み返してみたところ、やはり分かりづらいという印象です。
トルストイはこの段階ではまだ思考過程にあり、問題をよく整理しているとは言い難い面もあります。

キリストは「私を信じる者には死はない」と言いましたが、しかしこの言葉を真に理解するのは簡単ではありません。
人間は死によって、その肉体は分解してしまい、その肉体によって生じていた意識も消滅してしまいます。
死がないという以上、何かが残らなければなりません。

トルストイもこの点では苦労しているとみえて、話が行きつ戻りつしたあげく、妙なことを言い出します。
まず、「個々の存在の世界への特定の関係を滅ぼすことは出来ない」といいます。
言葉だけ聞いたのでは何のことか分かりませんが、その説明を聞くとさらに分からなくなります。
「肉体や意識は死と共に消滅してしまうが、個々の存在の世界への特定の関係を滅ぼすことは出来ない」ということらしいのですが、では世界への特定の関係とは何かと言えば、「個々の好き嫌いの主体である」といいます。
そして、「この好き嫌いの主体である我こそは、時間の外にあって死とは無関係である」としています。
「好き嫌いの主体である我」というのはおかしな表現ですが、おそらく自分の中に在る絶対者としての自分、もしくは絶対的なものとつながっている自分の心のことではないかと思います。

次に死によって消滅しないものとして、人々に残る記憶をあげています。
確かにキリストやトルストイは人々に記憶を残すでしょうが、私などは一年もたたない内に忘れ去られるでしょう。

さて、私がここで挙げた問題はいづれもささいなことで、大筋からいえば正論であることには変わりません。
ただ私は、まだ当分迷いから抜け出せそうにありませんが。

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善と悪(2)

さて、では具体的に悪とは何をいうのでしょうか。
仏教では五悪がよく知られています。
五悪とは殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゅ)のことをいいます。
キリスト教でもほぼ同じでしょう。
我々の良心と照らし合わせても異存はありません。

ではこれらの項目を一度も犯したことのない人はいるでしょうか。
たとえば、殺生とは、生き物を殺すということですが、まさか人間を殺す人はいないでしょうが、害虫やねずみは殺すでしょう。
それに、魚や肉を食べるということは、間接的にもせよ動物を殺していることになるのです。
それから偸盗とは、人のものを盗むことですが、現在では物があふれていますので、法を犯してまで盗みをする人はあまりいないと思いますが、でも切羽詰まれば、どうなるか分かりません。
かつて、イタリア映画で「自転車泥棒」という映画がありました。
善良な男が自転車を盗まれ、切羽詰まったあげく、今度は自分が他人の自転車を盗んでしまうという話です。
現在ではあまり実感がわきませんが、当時は貴重品だったのでしょう。
それにしても、人間は窮地に追い込まれれば、善良な人でも泥棒をすることがあり得るということです。
次に邪淫ですが、邪淫とは配偶者以外のものと性関係をもつことだそうです。
これも身に覚えのある人は少なくないでしょう。
つづいて、妄語とはうそをつくことであり、飲酒とは読んで字のごとくです。

以上五悪といわれる代表的な悪ですが、この他にも数え上げればいろいろあるでしょう。
というわけで、我が身を省みれば、私も充分悪人であることが納得できる次第です。
ただ、これらは道徳上から見た悪であり、他人に害を及ぼすような法律上の犯罪とは必ずしも一致しているわけではありません。

さて、悪をなしたものは当然その報いを受けるわけですが、法を犯した者は法によって罰せられ、道徳上の悪は自分の良心から責められることになります。
法的な悪と道徳上の悪とは同じ悪でも性質がちがいます。
法律とは社会生活を営む上での掟であり、ルールですからそれに違反したものが悪です。
現実に犯罪が起きている以上、「人間は本来善である」などとのんきなことを言ってられませんので、法によって厳しく取り締まらなくてはなりません。

一方の道徳上の悪ですが、実はこれこそ人生論で取り扱う悪なのです。
法的な悪は、あくまで人間同士の利害関係であるのに対して、道徳上の悪は自分の良心が相手です。
さて、良心とは、一種の感情にすぎないという人もいるかもしれませんが、もし良心が人間の心に無かったら、この世は暗黒の世界になるでしょう。
人の良心を感じて、ほっとしたと思うこともあると思います。
また、良いことをしたあとにすがすがしい気分になったこともあるでしょう。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは時折「ダイモニオン」という心の声を聴いたといいます。
それが彼の考え方や行動の重要な指針になっていました。
それは、常に何事かを止める形であらわれ、何かをすすめる形ではないということです。
私はこの「ダイモニオン」は良心のことだと思います。
ソクラテスのみに聞こえた訳ではなく、全ての良心のある人にささやきかけてくる心の声です。
それが常に止める形であらわれるというのは、良心は常に動物的本能の抑制としてあらわれるからです。
動物的本能自体は善でも悪でもないのですが、それが良心の許容範囲を超えた場合に悪となりえるわけです。

ソクラテスは死刑によってこの世を閉じることになるのですが、その罪状は「国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」ということのようです。
そこで、罪を認め、謝罪すればことは済んだのでしょうが、ソクラテスは自説を曲げず、自説の正統性を主張し、そのためには死すら恐れないと言明したのです。
そう決断したことの背景には「ダイモニオン」による反対がなかったからだといいます。
実際彼は進んで死を受け入れ、平然としてこの世を去るのですが、もしこの事件がなければ、彼が後世に名を残すことは無かったでしょう。

哲学とか宗教、あるいは人生論と呼ばれるものは、多くの人によって語られています。
しかし、その真偽を確かめるのは簡単ではありません。
唯一その教えが正しいと判断できる根拠として、命を懸けているかどうかです。
といっても、その教えが全ての人に真であるとは限りませんが、少なくとも本人にとっては間違いなく真理なのです。
哲学あるいは信念とは科学などの学問とは違い、生き方の根本に関わる問題ですので、理詰めで推し量ることは出来ませんし、また全ての人が同調するとは限りません。

その教えの目的が死の恐怖心の克服であるならば、ソクラテスが死を恐れず、平然として受け入れたということは、その言説がソクラテスにとって真理であることを物語っているのです。
そして彼を死を前にして平然とさせていたのは、「ダイモニオン」、即ち良心ではないかと思います。

さて、良心とは真実の心であり、仏教の慈悲やキリスト教の愛に通じるものです。
仏教でいう真如、自性清浄心、仏性、などと同義語であり、キリスト教では神の意志、あるいは声としてその本源を神としています。

というわけで、人間の善なる心とは良心であり、良心とは我々にささやきかけてくる永遠不滅の実体からのメッセージではないでしょうか。
プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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