仏教の空とは(2)

仏教の根本的な考え方の一つに「空」がありますが、これを真に理解している人は少ないのではないでしょうか。
「空」を完全に理解した人は、当然、仏教を全て理解した人であり、従って、解脱した人であるはずです。
「空」とは「縁起」のことであり、「縁起」とは釈尊の教えそのものであり、仏教の核心に当たる概念です。

「空」や「縁起」という言葉の意味を解説した書籍は多数ありますが、なかなか的を射たものは少ないようです。
真に「空」を語れる人は、悟りに至った人でなければならないでしょう。
自分で見た事も無いものをいうのは「講釈師、見てきたような嘘をいう」のと変わらないからです。
と、いう私はどうかといえば、むろん、私も講釈師、それも素人講釈師といったところですが。

さて、日本で仏教の代表的な講釈師、いや失礼、研究家として知られている中村元先生の著書「龍樹」が今、手元にありますので、これを参考にして考えてみたいと思います。
この書によると、「空」と「縁起」さらに「中道」は同じ意味であるとしています。
一般的に「空」とは否定概念であり、虚無主義と受け取られがちですが、「縁起」さらに「中道」と同じ意味であるならば、まったく違うことになります。

「空」はまた、「無我」「諸法実相」とも同じであるということです。
ということは、なんのことはない、仏教の代表的な概念はすべて「空」に集約されている訳です。
「空」を知ることが仏教を知ることであり、人生の根本問題を解決することです。
なぜかといえば、「空」は人類が到達した最高の教えではないかと思うからです。
キリストやソクラテス、カント、それに孔子や老子などの教えも真理であることは間違いありませんが、その深さの点では仏教に及ぶものはないでしょう。
しかしながら仏教は、皮肉にも、その深さのゆえに、衰退してしまうことになります。
一般民衆が理解出来ないからです。

さて、現代は、あらゆる面でいきづまりを感じています。
文明の進歩が必ずしも、人間の幸福に結びつかないことが分かってきたからです。
現代文明を支えてきたのは、いわゆる科学的なものの見方です。
科学的な見方、あるいは態度こそは、迷信や誤謬を正し、真実の世界を明らかにする唯一の方法であると信じて疑わなかったわけですが、ここにきてその自信がゆらぎ始めています。
そもそも科学的な世界観には根本的に欠陥があります。
カントの純粋理性批判を持ち出すまでもなく、空間と時間で世界を捉えることは不可能なのです。
どちらも無限無窮になるからです。
無限ということは、分からないと同義語です。

というわけで、現代人も今までの科学一辺倒の考え方を見直す方向に行きつつあります。
とは言っても、今まで宗教など見向きもしなかった人が、今更、神や仏を信じろと言われても、そう簡単ではありません。
今まで慣れ親しんでいた科学に対する信頼感を否定して、新たなものを受け入れるには、我々の理性を納得させるだけの、それ相応の論理がなければならないでしょう。
いわば、現代人はよけいな知識を詰め込んだ重病人といえるかもしれません。
浄土宗の開祖である法然上人は、無学で知識もない、卑しい人の往生については間違いなしと言っていましたが、学問があり、理屈をこねる、賢人ぶった人の往生については、これを心配したといいます。

現代人はものごころのつく頃から、良きにつけ悪しきにつけ、科学的な考え方を教え込まれます。
現代では科学的知識を無視しては、生きていくことさえ困難になっているからです。
もちろん、科学自体は人間にとって有用であることは間違いありません。
ただ、科学はあくまで、技術、道具にすぎず、人生の根幹に関わる心の問題に口を出してはならないのです。
科学は人間にとって、薬にもなりますが、毒にもなることを忘れてはならないでしょう。

さて、話がだいぶそれましたが、「空」についてはまた次回にします。
なお、私の記事に拍手をしていただきありがとうございます。
私の書いたものが、どのように受け止められているのか、実は気になるところで、大変はげみになります。


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死を選ぶということ

私のブログもだいぶ回を重ねてきまして、読んでいただいている方も増えているようで、まことにありがたいことですが、ところが先日めずらしくコメントが入っていました。
その内容は「その矛盾に縛られて自殺しようとは思わなかったのですか?」といういささかショッキングなコメントです。
文章が簡略すぎて、真意ははかりかねますが、想像を交えながら判断して、一応解答は書いておきました。
ただ、自殺という問題はかなり深刻な問題ですので、軽々しく話題にすることは出来ませんし、口にすべきことでもありません。
私自身、自殺という問題に対して確固たる考えを持っているわけではありませんが、心の痛む問題であることだけは確かです。

確かに、私のブログは悲観論的、厭世的な言葉が多いですが、これはあくまでそこからの脱却を意図しているわけで、人間としての正しい生きる道を模索するのが本意です。
自殺をすすめたり、自殺がこの世の矛盾から脱却できる手段であると言ったことはありません。
自殺することによって、あとに残された人は当然その苦しみを引き継ぐことになります。
そういう意味では自殺は悪であると言えなくもないでしょう。

ただ、自殺に至る過程は様々であり、一概にこれを悪であるとか、迷いであると言い切ることもできません。
覚悟の自殺もあるし、善意からの自殺もあり得るからです。
たとえば、何らかの責任をとっての自殺とか、良心の呵責に耐えきれずに死を選ぶとか、自己犠牲による死などです。
また、不治の病に罹り、周囲の人に負担を掛けるのに忍び難く、死を選ぶ人もいるでしょう。
さらにはまた、政道を正すために身を持って諌めるという忠義の人もいるかも知れません。

しかし、一般的に自殺と言えば、厭世観に基づくものがほとんどではないでしょうか。
失恋、事業の失敗、病気、借金など身近な問題が多く、前述のような人生の矛盾を感じての自殺というのは少ないでしょう。

さて、「自殺について」といえばショウペンハウエルを思い出しますが、私も若い頃これを読んで、共感した思い出があります。
ただ、ショウペンハウエルはあくまで傍観者の立場で自殺を論じている訳で、ある意味では無責任であるともいえるでしょう。
自殺は悪ではないとして、死は良き友達と言っている訳ですから。
ショウペンハウエルはまた、人間の恐怖心や苦痛が、死の恐怖心を超えたときには、人は躊躇せずに死を選ぶであろう、と言っています。
これはおそらく、間違いないかも知れません。
私自身、大病を患った時に、あまりの苦痛のため、死すら望んだ経験があります。

また、仏教では、生に執着するのも、死に執着するのも、共に誤りであると教えています。
生死を超えた生き方こそ正しい道であるとしています。
私もまだ実感として、その境地に達してはいませんが、そういう生き方があると信じています。

ところで、人間は徹頭徹尾、自分の意志で生まれてきたわけではありません。
それなのに、死だけは自分の意志で決めるというのは何か不自然な感じがします。
それに、我々は死が如何なるものかを知りませんし、死がこの世からの解放かどうかも実は分からないのです。
死など無いのかも知れません。
永遠に生のみがあるのかもしれないのです。
たとえば、別の人間として生まれ変わるかも知れませんし、他の生物として生まれるかもしれません。
人間が無から突如として生まれ、突如として無になるという考えより、よほど自然であると思います。

秋の木枯らしは落ち葉を舞い上がらせます。
もちろん、風が落ち葉を動かしているのあって、落ち葉が自分で動いているわけではありません。
風が止めば、落ち葉は静かになります。
しかし、風の本体である空気が無くなったわけではないので、繰り返し風となって、落ち葉を舞い上がらせることでしょう。

さらにもう一つ。
秋になると、木の葉も枯れて落ち葉となります。
しかし、春になれば、新たに芽が出てやがて若葉となります。
秋に落ちた枯れ葉と、春に出てきた若葉は同じものではありません。
しかし、全く違ったものでもありません。

さて、人間の世界でも死にゆく人もあれば、生まれてくる人もいます。
この両者が全くの別人だと考えたとしたら、それは明らかに間違いでしょう。
姿かたちは違っていても、同じ生命の本源を有しているであろうことは、容易に推察できるからです。

というわけで、この問題は快刀乱麻を断つようにはいかないようです。
結局のところ、最終的には心の問題になりますので、どのように考えたら心が落ち着くのかというところに帰結するのだと思います。
しかし、いづれにしても死によって、人生の矛盾を解決しようというのは、ちょっとさみしい感じがします。

ところで、ここで、ある人の言葉を思い出しました。
誰の言葉だったか思い出せなかったのですが、インターネットでこの言葉をそっくり検索してみたところ、一遍上人語録に出てくる空也上人の言葉だとわかりました。
さすが、インターネットはすごいという感じですが、こと心の問題に関しては、遠い過去の人にも及ばないというのも皮肉な感じがします。
さて、この言葉とは
「三業(身と口と心の働き)を天運 に任せ、四儀(行住坐臥のふるまい)を菩提に譲る(仏道に捧げる)」という一節です。
一遍上人は空也上人を大変尊敬していまして、空也上人の言葉を覚え込まれていて、時折口に出していたということです。
一遍上人によると、「信とは法にまかせることであり、衣食住は天運にまかせなければならない」として、「空也上人のこの言葉は他力に帰入したありさまである」と説明しています。
空也上人はまた、ある人から、念仏はどのように申したらよいかと問われて、ただ「捨ててこそ」とだけ答えられて、その場を立ち去ったそうです。

さて、今回は気の重い題となりましたが、人生、あまりあれこれ考えずに、全てをなげうって、成り行きに任せるのも必要なことかもしれません。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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