ブッタ(釈迦)の教えとは

御存知のように、ブッタは著作を残していませんので、その「教え」は全て、言い伝えによって伝承されたものです。
人間誰しも、自分が理解したこと以外は記憶に残りませんので、当然、「教え」を聞いた人も、自分が理解した範囲内での言葉を伝えたにすぎないでしょう。
ですから、ブッタの真意が正確に、「教え」として伝えられて来たとは考えにくく、後世の人たちの主観によって、多少なりとも歪曲、あるいは脚色された、しかも、ブッタの考えの一端を伝えているのみと見た方が自然でしょう。

さて、仏教書の中でも最も古い経典といわれている「スッタニパータ」(中村元訳)が今手元にありますので、これを参考にして考えてみたいと思います。
実はこの書、十年程前に買ったのですが、ざっと一読したまま、その後ほとんど目を通すこともなく、本棚の影で眠っていたというものです。
当時、私の関心はもっぱら人生問題の論理的な解決を求めていたわけで、この書に記されているような、素朴な実践法など興味がなかったのです。
ところが、論理的な解決は不可能というか、意味を成さないということが次第に明らかになるにつれて、あらためて実践、即ち、生き方そのものの重要性を見直すようになったのです。
真理とは頭で理解するものではなく、あくまで体験を通して得られる心の境地を指すのだということが、次第に分かってきたわけです。

さて、「スッタニパータ」で語られる言葉はブッタに最も近いと言われていますが、では、この経典でブッタ、あるいはこれを編纂した人たちは何を言おうとしているのでしょうか。
私はこれを一言で言えば次のようになると思います。
「この世の苦から脱却するには、苦の原因となる執着を捨てよ」と。
確かにこれはもっともな話で、物事に執着するから、それを失った時に苦痛を感じるというのは当然です。
執着心が強ければ強いほど、苦痛も大きくなるというわけです。
ただ、執着心の対象となる事柄は無数にありますので、これを全て無くすることは出来ません。
ですので、あくまで寡欲を勧めているのだと思います。

寡欲とは欲望が少ないということですが、寡欲を勧めているのは、もちろん仏教だけではありません。
古今東西の聖賢達は皆口をそろえて、寡欲を勧めているのです。
では、なぜ無欲ではなくて、寡欲を勧めるのでしょう。
仏教では寡欲という言葉を使わずに、中道という言葉を使っています。
中道とは、快楽主義と禁欲主義という両極端に近寄らず、中間という意味ですので、寡欲もその中に含まれていると見てよいでしょう。

ブッタは、いくら厳しい苦行をしても、悟りを得ることができないとして苦行を捨て、中道を覚ったといいます。
ブッタは琴の弦を例えに出して中道を説いています。
「弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る」と。
ブッタは体験を通して、中道を覚ったわけですが、ではなぜ中道なのでしょうか。
中道とはいかにも中途半端な気がします。
この世が苦であり、悪であるなら、なぜいっそのこと死を勧めないのでしょうか。
死によって、全ての矛盾は消滅します。
肉体上のあらゆる悩みから解放されるだけではなく、苦の原因とされる執着も欲望も無く、苦しみを感じる意識も無いというわけで、完全に苦から脱却出来るのです。

確かに死ねば、楽しみを感じることもありませんが、しかし、この世の楽しみなどは、全て苦しみとくっ付いているのであり、こんな楽など失っても惜しくはないのです。
ただ問題は、これらの考えは、生きている間の想像にすぎず、我々は死を知らないのです。
死ねば、この世の苦しみから脱却出来るであろうと類推するのみで、実際にどうなるかは誰にも分かりません。
仏教では輪廻という考え方があり、人は無限に生まれ変わるとされていますので、せっかく死んだのに、また生まれてきたのでは意味が無いともいえるわけです。
また、仏教では悟りを得ることによって、無限に続く輪廻から脱することが出来るとされていますが、悟りを得るには、やはり中道による実践ということになるのでしょう。
生にも執着せず、死にも執着しないという境地がそこにはあるのだと思います。

ところで、前回までの話でも中道という言葉が出てきましたが、空や縁起と同義語ということで、主に理論的な面から考えてきたわけです。
今回、ここでの中道は、実践的な方面での話ということになります。
空あるいは縁起とは、結局、この世界こそ真実の世界であり、誤った見方を正すことによって諸法実相を見るということでした。
ですから、輪廻とは凡夫から見た世界であり、覚者から見れば、それがそのままニルバーナ(涅槃)であるということです。

私の考えでは、人は死ぬと無になるという考え方は間違いであり、肉体は分解しても無にはならず、それを生かしていた生命が消え去るわけはないのであり、形を変えて永遠に存続すると見るのが自然であるということ。
また、生前に良い行いを続ければ次の輪廻では良き境遇に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇に生まれ変わるという考えは、あくまで心の問題であり、言葉通りに解釈する必要は無いということ。
そして、現実のこの世界において心の平安が得られなければ、いかなる教えといえども、その価値は無いということです。

さて、本題の「スッタニパータ」から話が大分それましたが、「スッタニパータ」に関して言えば、原始仏教の考え方の一端が分かり、参考にはなったが、それ以上のものではないというのが正直なところです。
仏教はブッタの教えということになってはいますが、事実は後世の人たちによって、その真意を推し測ろうとして来た歴史であり、その考え方の集積と言ってもよいでしょう。
実在したブッタがはたして、どこまで悟り得たのかは分かりませんが、もし、ブッタが文書を残していたら、その後の仏教は違ったものになったでしょう。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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