人生について

人生不可解とは、確かにその通りではありますが、だからこそ幸いであるともいえます。
人生の究極は神秘に包まれており、我々の認識を超えています。
だからこそ、我々の世界は永遠であり、尽きることのない泉のようでありえるのです。
我々の認識とは所詮、固定概念にすぎません。
世界を一面的に捉えた写真のようなものかもしれません。
真実の世界を我々の概念で捉えることが出来ないのは当然といえるでしょう。
しかし、我々は自由に物事を考えることができます。
世界の捉え方も自由です。
我々は自由に物語を作ることができます。
人それぞれ自分に合った物語を作ればよいのです。

我々の思考自体は空虚な妄想などではあり得ません。
我々は思考によって、人生の指針を立て、善悪を判断し、より良く生きるために日々の行動を決定しています。
我々にとって思考、あるいは意識が全てであり、もし我々の意識の外に真理があるとしても、それは我々に関係ない話です。
あくまで我々の意識の内での問題なのです。
なぜなら、迷っているのも我々の意識であり、答えを求めているのも我々の意識だからです。

我々は絶対なるものを認識できません。
なぜなら、我々の認識は相対的だからです。
ですから、その答えも相対的なものにならざるをえません。
神、仏、道などの概念は絶対的なものを相対的な言葉で言い表しているのです。

真理そのものは、我々の迷いや悩みを断ち切ってはくれません。
迷いや悩みを断ち切るのは、あくまで相対的な言葉によるのです。
前回でも取り上げた一遍上人の「別の火をもって木を焼けば、たちまち焼ける」とはこのことを指しているのだと思います。

浄土宗の教えがほとんど物語であることは周知のごとくです。
しかし、宗教が論理的でないと言って、非難するのは見当違いです。
人間の論理こそ迷妄の元凶なのです。
適切な表現ではないかもしれませんが、「毒をもって毒を制す」という諺のように、迷いという毒を相対的な言葉という毒で制するのです。

さて、現在考えていることを、雑然と書き並べてみましたが、私自身まだ迷いの中をさまよっているようです。
哲学的な論理が、現実の極限状態においていかに無力であるかは、言うまでもないでしょう。
おそらく仏教の無記(形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ること)という態度が正解なのかもしれません。
人生に論理的決着などありえず、ただ「正しく生きよ」と。

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magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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