老荘と仏教(4) 老子の万物復帰

老子という書物は、一人の人物が書いたのではなく、古くからの名言を集めた編纂物であるという見方があるそうですが、確かに内容的に見ても首尾一貫しているとは言い難い面もあります。
人生の根本問題に言及しているかと思えば、現実的な政治に関心を寄せたり、不老長寿の話が出てきたりします。
また処世術的な文も見受けられます。
文自体も、私という一人称の入った詩的な表現もあれば、宇宙自然の理法を語る冷徹な記述もあり、さらには、ことわざや格言のようなものもあります。
ただ、儒家に対抗するという点では一致しているようです。
いづれにしても、これを書いた人、あるいは編纂した人は老子(そういう人物がいたとすれば)自身ではないような気がします。
なぜなら、仏教の空に匹敵するような考えの持ち主が、政治に関心を持ったり、不老長寿を願うことなどあり得ないからです。
もちろんこれは私の思い込みですが。

というわけで、私の関心はもっぱら道に関することに限定しています。
さて、第十四章に「これを視れども見えず、云々」という一文があります。
ここでは道についての説明をしているわけですが、要するに道は、視ることも、聞くことも、捉えることもできない、我々の認識を超越したものであるということを老子風に表現しています。
世界の根本問題については、「これを認識することも説明することも出来ない」と私もこのブログで飽きるほど言っていますので、特に目新しいことではありませんが、ただこの文の最後に次のような一節があります。
「これを迎うるともその首を見ず、これに従うとも其の後を見ず。
古えの道を執りて、以て今の有を御すれば、能く古始を知る。これを道紀と謂う。」とあります。
この言葉の中で、「これを迎うるとも~其の後を見ず。」までは空間と同様に、時間的にも世界の初めも分からなければ、終りも分からないということでしょうが、次の「古えの道を執りて、~これを道紀と謂う。」が何のことかよく分かりません。
おそらくこれは論理を超えた体験の世界の話と思われます。
道を実体験することによって、初めて真実の世界が明らかになることを言っているのでしょう。
ですから、世界の初めとか終りとかという議論が無意味となる世界、即ち論理を超えた実感としての境地を道紀というのだと思います。
このように、論理的な話から突如として体験的な話に移行するのは老子に限ったことではありません。
仏教の唯識でもそのような場面があります。
唯識とは識のみが存在するという考えで、中観派と並び、大乗仏教の論を代表する教理です。
西洋哲学でも唯心論という考えがありますが、それとは似て非なるものです。
西洋哲学的に論理を推し進めても、突如として論理を飛び越えてしまいます。
これは唯識という論理は瑜伽行(ヨーガ)の実践の中で考えられた真理に至るまでの方便にすぎないからです。
ですから、最終的には唯識の識自体も捨て去ってしまいます。
あくまで、目標はニルバーナ(涅槃)であって、論理の追求ではないからです。
西洋哲学ではカントが、理性によって物自体に到達することは不可能であり、実践によってのみ到達可能であるとあえて言わざるをえなかったわけですが、仏教や老子はそれが当然のごとく、論理即実践であったわけです。

さて、次に私が注目しているのは第十六章「虚を致すこと極まり、云々」ですが、ここでは万物復帰の考えを述べています。
無心無欲であれば、「万物並び作こるも、吾は以て復るを観る」ということであり、「夫れ物の芸芸たる、各々其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是れを命に復ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰い、常を知らざれば、妄作して凶なり。」ということです。
ここでは生命の復帰を草木に例えています。
今を盛りに生い茂る草木も、やがてその根に復(かえ)るのであり、それを静と曰(い)い、それは本来の命に復(かえ)ることであり、これを常という。
そしてこの常を知ることが、明であり、これを知らざれば、妄作(もうさ)して凶(きょう)なり、となります。
最後の「妄作(もうさ)して凶(きょう)なり」とは、でたらめな行いをして悪い結果になる、という意味です。
また、「常を知らざれば」の常とは、おそらく「常なる在り方」という意味だと思いますが、もっと深い意味で、真理そのもの(老子では道)を指しているのかもしれません。
また、「命に復(かえ)る」の命とは、己の本分という意味に私は解釈しています。

さて、老子は万物復帰の思想を展開しているわけですが、世界の根源として道を置いているのは言うまでもありません。
末端の現象のみに捉われて生きるならば、こころ休まることはないでしょう。
己の本源としての道をわきまえているならば、いたずらに現象に振り回されることもないでしょう。

というわけで、老子の思想は偉大なる処世術といえるかもしれません。

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老荘と仏教(3) 大道廃れて、仁義あり

前回は老子の「学を絶てば憂いなし」という言葉を採り上げましたが、老子の言葉自体が難解で、学どころか解説なくして読み取ることが出来ません。
今手元に金谷治氏の適切な解説書がありますので、これを参考しながら考えています。
さて、「学を絶てば憂いなし」とある章の前に「大道廃れて、仁義あり」という文句があります。
その後続けて「知恵出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家昏乱して、貞臣有り。」となります。
何のことかといえば、儒教が掲げるこれらの道義は、それが失われているからこそ、ことさらそれを言っているのに過ぎないということだそうです。
確かに、仁義、孝慈、忠臣などという徳目はそれが無いからこそ言う必要があるのかもしれません。
ここで思い出すのは、今日本に「敬老の日」なるものがあります。
私もそろそろ老人の部類に入るのですが、もちろん私を敬ってくれる人など誰一人としていません。
私に限らず、今の日本で老人を敬う若い人などいるのでしょうか。
それが無いからこそ、ことさら敬老の日なるもの作ったのでしょう。
今の若い人から見れば、老人など産業廃棄物位にしか思っていないのではないでしょうか。
こんな風潮をつくったのは誰かといえば、もちろん老人です。
なぜなら、現代社会をつくってきたのは、元は若かった今の老人だからです。
若い人は先輩を真似て育っていきますので、今の若い人たちの姿は、他ならぬ自分の姿であるというわけです。
ではなぜ老人が尊敬されなくなったのでしょうか。
答えは簡単で、尊敬されるようなことをしていないからでしょう。
しかも、若い人が「敬老の日」をつくったのならいざ知らず、老人がつくったのだとすれば、敬老どころか厚顔無恥というレッテルが貼られることになります。

さて、現代社会は老子の理想とは全く逆の方向にあるといえます。
では老子の考え方とはいかなるものでしょうか。
次にそれを見ていきたいと思います。
老子の思想を最も端的に言い表しているのは、やはり開巻第一にあるこの言葉であろうと思います。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の初め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。
この両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。」
私も若い頃から、老子を読むたびに、この言葉が目に入りますが(最初に出てくるので)、意味がいまいちはっきりしませんでした。
むろん、解説が付いていますので、全く分からないということではありませんが、その真意がつかめなかったのです。

「道の道とすべきは、~常の名に非ず。」までは儒家が掲げる道、名の批判ということだそうです。
要するに、真実の道は言葉では言い表せないということでしょう。
次の「名無きは天地の初め、名有るは万物の母。」とは、字ずらだけ眺めてみても何の事だか分かりません。
そこで解説を見ると、「無名が万物生成の始原であり、有名が万物の種別が生まれる母胎である」ということらしい。
でも、これだけではまだはっきりしません。
私はこれを自分なりに解釈して、「本来、宇宙万物には名は無い。名が無い限り、全ては一体である。人間が名を付けることによって、万物が分化した。」としました。
そして次の「故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。」は当然前の言葉を受けているわけですから、妙とは名の無い一体的な世界を指しているのであり、徼(きょう)とは名によって分化され、認識された世界ということになります。
そして重要なのは、無欲であればその妙を観ることができるが、有欲であれば徼(きょう)、即ち末端の現象が観えるだけであるとしていることです。
要するに、欲の有る無しによって世界の観方が変わってくるという点です。
ということは、この言葉は単に認識論的にではなく、実践を通して得られるこころの境地を言っているわけです。
なお、徼(きょう)という字は明白という意味だそうですが、私は我々が認識した明らかな世界と採りました。
最後の「この両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。」とは、この両者、即ち妙の世界と徼の世界は、もともと同じものであるが、観方によって名が変わってくるということ。
そして、両者共にその本源は我々の認識を超えているが、その超えた世界から全ての現象が現われてくるということです。

さて、この老子第一章の言葉だけに限っていえば、仏教の中観派の考えに近いのではないでしょうか。
この言葉がそっくり仏教経典に在ったとしても不思議ではありませんし、むしろ仏教の心髄を簡明に言い表しているとさえ言えなくもないのです。
言葉の虚構性を強調している龍樹と同じく、老子も言葉や概念を信用していません。
また、ここでいう妙は、そのまま空、真如、真諦などと相通ずるところがあると思います。
さらに、老子のいう無欲は仏教の中道と近いといえるでしょう。

というわけで、次回はさらに老子の核心に迫っていきたいと思います。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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