プラトンのイデア論

プラトンといえば、私も若い頃「饗宴」を読んだことがあります。
当時は人生問題に真剣に悩んでいた時期でしたので、人類最大の賢者といわれるソクラテスの話ということで、期待して読んだものです。
しかし、読み進んでいくうちに次第にばかばかしくなりました。
「饗宴」の副題を「恋について」というのだそうですが、恋といっても男色(青年愛)のことで、男女間の愛ではないのです。
しかも内容は酒宴の席での恋愛談義(男色の)といったもので、真剣に読むに値するとは思えませんでした。
確かに、後半でソクラテスによるそれらしき議論が出てくるのですが、しかしその内容を今思い出そうとしても思い出せない程、私にとって印象の薄いものでした。
今わずかに記憶に残っているのは、アリストパネスの説で、男女が元々くっ付いていたという話ぐらいです。

と言う訳で、ギリシャ哲学にはほとんど関心がなかったのですが、前にも話したようにパルメニデスの説を聞いてから次第に興味が出てきました。
今読んでいるのはシュヴェーグラーの「西洋哲学史」(岩波文庫)です。
今、手元に上巻しかないのですが、若い頃は上下巻共にそろっていました。
この書は、内容が難い上に、訳文特有の意味不明さがあり、しかも哲学のダイジェストですので、よほど哲学に関心のある人でないと読む気になれないかも知れません。
若い頃は拾い読みした程度でしたが、今改めて読んでみるとそう捨てたものではないという印象です。
要点を的確につかんでいるようですし、著者の識見も確かなようです。
それに西洋哲学の流れをつかむことが出来ます。
元来、哲学、思想というものは、先人の思想の上にあるものであって、個人が突如として思想を造り上げるものではありません。
あくまで時代の流れの中で、多くの人の考えの地盤の上にあります。
そういう意味では、西洋哲学全体が一つの哲学体系と言えるのかも知れません。

さて、プラトンのイデア論ですが、前回でも指摘したように、パルメニデスの不生不滅の論とヘラクレイトスの万物流転の論との融合を目指した考え方であるわけです。
それはどのようなものかというと、この現実の世界は生成流転する世界であるというヘラクレイトスの考えを引き継ぎ、しかしその背後には永遠不変の真実在があるとしてパルメニデスの説を取り入れています。
そして、その真実在こそイデアであるとしています。
シュヴェーグラーの「西洋哲学史」には以下のような定義がなされています。
イデアとは「多様のうちにおける共通なもの。個物のうちにある普遍的なもの。多のうちにある一。変転常ならぬもののうちにあって恒久不変なもの。」である。
要するに、この世界は仮象の世界であって永遠に存在するものはなにもなく、イデアの世界こそ真実在であるということです。
しかしここで疑問が生じます。
なぜ、現象の背後に永遠不滅のイデアが在ると言えるのか、ということです。
むろん検証もできませんので、単にそういうものが在って欲しいということだけなのか、それとも何らかの根拠があってのことなのかです。
また、そもそも何故、一見荒唐無稽とも思えるイデア論なるものを考えついたのかということです。

プラトン入門(竹田青嗣著)ではプラトンの初期対話篇には特徴的な定型があるといいます。
ソクラテスが「~とは何か」という問いを投げかけ、相手に答えを求め、その不十分さを追い詰めていくというものです。
美を論じた「ヒッピアス」、勇気について「ラケス」、友愛では「リュシス」でもほとんど同じ形で反復されるといいます。
「~とは何か」とは本質を洞察するということですが、その本質とはその概念の普遍性(共通了解)の根拠ということです。
言葉が相手に通じるには、その言葉について双方共にその言葉についての普遍性(共通了解)がなければならいのは当然ですが、しかし本質とはどういうことでしょう。
ここでプラトン独自の考え方として想起説というのがあります。
想起説は物語として語られているのですが、要するに人間は概念の本質を生得的に知っていて、それを想起しているのだというのです。
確かに我々の知識や概念は後天的な経験だけから成り立っているわけではありません。
たとえば「等しい」とか「似ている」とかの判断は後天的に学んだとはいえません。
さらに善悪、美醜、愛憎などの概念にも同じことが言えます。
もちろん言葉自体は後天的な知識ですが、その指し示す意味は先天的に人間が知っているものです。
なにが善か悪か、どのようなものが美であり醜であるかを人間は本来的に知っています。
また、このような情念に類するものだけではなく、幾何学のような推論においても同様に、誰でもが同じ結論に達するのは、思考における普遍性(共通了解)があるからだといいます。

さて、この本質洞察がイデア論につながり、本質がイデアという言葉に置き換えられていくわけですが、ここで注意しなければならないのは、プラトンは美とか善だけでなく、ありとあらゆるものにイデアを措定していることです。
「かくしてプラトンは、寝台や机や強さや健康や声などのイデア、単なる関係や性質概念のイデア、数学的形象のイデア、さらに存在しないもののイデアや、劣悪や不徳のイデアさえ語っている。要するに、同一の名詞、共通の名称によって言い表されるところにはいたるところにイデアが想定されうるのである。」(シュヴェーグラー西洋哲学史)
こうしてみると、プラトンはイデアを広い意味で使っていることが分かります。
あるときは三角形などの概念としてのイデア、あるときは美自体などの本質としてのイデア、またあるときは原因の根拠としてのイデア、さらにまたあるときは生の目的としてのイデア等々。
ということで、これだけでも充分わかりづらいのですが、さらに追い打ちをかけるようにイデアにはランクがあるということです。
下位に諸々のイデアがあり、上位に正義、節制、美などのイデアがあり、最高位にイデアの中のイデアとして善のイデアがあるといったぐあいです。

さて、このようなプラトンのイデア論に対してきびしく批判しているのが、プラトンの弟子であるアリストテレスです。
アリストテレスのイデア論批判はまた次回で。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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