汎神論

前回、ストア学派は汎神論であるということを書きましたが、汎神論という言葉自体は後世の造語だそうで、この時代ではそういった意識はなかったと思われます。
「汎神論(はんしんろん)とは、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場である。」(ウィキペディア)
ということですが、我々自身、自然から生まれ、自然に帰っていくわけですから、自然こそ我々の母胎であり、本源であるとするのは自然な考え方でしょう。
ですから、汎神論という考え方はほとんどの哲学や宗教にも多かれ少なかれあります。
老子の「万物復帰」や「無為自然」などはもちろん、仏教の「山川草木悉皆成仏」などもそのような考え方の表れといえるでしょう。
「自然の中に神が宿っている」というような素朴な意味での汎神論であるならば、我々は違和感なく受け入れることができます。
しかし厳密に「この世は神の顕現である」あるいは「神と自然とは同一である」とするならば、かなり矛盾する部分が出てくることになります。
最大の矛盾はこの世の悪を説明できないことです。
もし人在って、何の先入観もなく、純粋に客観的に、公平にこの世界を分析するならば、この世界は悪であると断定するでしょう。
自然による災害はもちろんのこと、人為的と思われていた災害ですらその背後に自然の意志があるかもしれないのです。
人間を突き動かしているのは衝動であり欲望ですが、それこそ自然の意志でなくして何でしょうか。
そもそも人間の存在自体が衝動と欲望の産物であり、決して理性や知性の賜物ではないのです。
人間は生まれながらにして、生存競争に生き残るように仕向けられており、敵を倒しその肉を食う野獣と変わるところがありません。
人は人にとって狼であり、最大の害悪は人災なのです。
正にこの世は悪に満ち満ちており、神の顕現どころか悪魔の顕現としたほうがふさわしいでしょう。
というわけで、当然ながら自然と神の概念は矛盾します。

ストア学派の汎神論というのは、おそらく厳密な意味での汎神論ではないでしょう。
ただ漠然と「神=自然=善」と考えていたのではないでしょうか。
始めに書いたように、このような考え方は素朴に見れば自然であり、間違っているとは思えません。
我々の心の中には善なる意志が確かにあるにはあるのですから。
我々も自然の一部である以上、自然の中に善があると見なければなりません。
また、神という概念自体が我々の善なる心の要請によって在るのですから、当然究極の善であり、善以外のなにものでもないわけです。
であるならば、我々が善なる心で見る限り、神と自然は同一となり得ます。
善も悪も我々の心の中にある我々の見方にすぎないからです。
自然はあくまで無記であり、それを善とするか悪とするかはその人の見方の相違ということになります。
仏教ではこの世を悪と見、そこからの解脱を目指しています。
キリスト教ではよく分かりませんが、おそらくこの世からの救済としての神への信仰ということでしょう。
一方、素直にこの世を善と見れる人は幸せな人かもしれません。

結局、汎神論という問題もこの種の多くの問題と同様に結着のつかない問題ですが、はっきりしていることは、我々はこの自然以外には何も知らないのであり、この自然を立脚地とする以外にはないということです。
その中に善もあり悪もあり、救いも解脱もあるわけです。
ですから神が存在するとすれば、それは間違いなく自然のなかでしょう。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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