歎異抄と念仏

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは親鸞上人の弟子、唯円の作とされる歎異抄の中の有名な言葉です。

でも、現代人がこれを聞いたら、えっ!と首をかしげるのではないでしょうか。
「善人ですら往生できる、まして悪人が往生できないはずはない」なにを馬鹿な、何かの間違いでは、と思うのは当然です。
しかし、作者が続いて述べているように、これは他力本願の奥義なのです。

実は、この逆説的な言葉は一般向けに述べられたのではありません。
歎異抄自体が門外不出とされ、公開された文書ではないのです。
なぜなら、一般の人に誤解をまねく恐れがあるからです。

実際、他力本願という言葉自体がすでに誤解されて、他人任せのような意味で使われています。
もっとも、他力本願の真の意味を理解するのは容易ではありませんが。

Yahoo百科事典によると
~他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲の力(働き)、本願とは一切衆生の救済を約束する仏の願いをさす。~
とあります。

が、これだけでは何のことか分かりません。
これを完全に理解するにはやはり法然上人の選択本願念仏集を読まなければならないでしょう。
読んで分かればの話ですが。

法然は日本を代表する聖人の一人です。
「幼少にして比叡山に登り、十七歳にして天台三大部六十巻を渉猟し、天台、真言以下八宗の教義を究め、さらに一切経を七たび繰り返し読み、注釈、伝記に至るまで究めつくし、知恵は日月のごとく光り、学徳は先師を超えた。」と、これは当時書かれたある書物の一節です。

この法然は膨大な仏教の教理をたった六字にまとめてしまったのです。
すなわち南無阿弥陀仏です。
まず、仏教の教えを聖道門と浄土門に分け、それぞれ難行道、易行道とし、聖道門をわきにおいて、浄土門を勧め、さらに念仏による正行以外の行をことごとく雑行として排斥した。

これに対しては、当時より多くの批判がありました。
中でも代表的なのは、当時高僧の誉れの高かった明恵上人の催邪輪です。
そして、日蓮上人。
実は、前述の法然を紹介したある書物とは日蓮の立正安国論です。
もちろん、法然を褒めたたえるために書かれたのではなく、法然の選択集を批判するためです。

ところで、法然は一切経を七たび繰り返し読み、それでも出離の要道を得られなかったが、ついに善導の観経疏を見るに及んで、はたと目が開き、以後一切の教えを捨て、ただひたすら念仏に帰依したといいます。

しかしここで一つ疑問が生じます。
一切経を七たび繰り返し読む間には、当然、浄土三部経も善導の観経疏も見ていたはずです。
それなのに、なぜ気が付かなかったのでしょうか。
これはおそらく、法然自身がその心境に達していなかったのだと思います。
読んではいたが納得していなかった、自分の考えにはなっていなかったということです。
ですから、観経疏を見るに及んでということは、法然自身がその考えに到達したということ、従って、善導に依るとは言いながら、むしろ法然自身の考えと一致したというのが正確ではないでしょうか。

そしてさらに疑問があります、明恵上人が説く菩提心や聖道門が、仏教において重要なことを、法然は百も承知しているはずである。
それにもかかわらず、あえて捨てたのは、いかなる理由によるのかということです。
私も若い頃、選択集を読んだことがありますが(現在は手元に無い)、その辺りの本意がよく分かりませんでした。

法然は民衆救済を主眼に置いていたので、難しい教理や修行法など理解できない一般の庶民でも往生できる道を模索していたは確かです。

また、明日をも知れない人間にとって、修行して悟りを得るというのはあまり意味が無いかも知れません。

しかしそれだけではなく、決定的に法然を念仏に向けさせたのは何でしょうか。
おそらく、私は「信」ではないかと思っています。
仏教の究極として、あらゆる行に優先するものとして、信を見たのです。
信とは絶対なるものに身をまかすということです。
我執を捨て、己の一切を仏にゆだねることによってのみ、正覚を得るという考え方。
これは仏教のみならず、あらゆる宗教に共通した考え方です。
さらに言うならば、信は宗教と哲学の分水嶺でもあります。
信のあるなしが、宗教と単なる理論の世界とを分けます。

それではなぜ、信が重要な意味を持つのでしょうか。
仏教では究極の教えとして、無我を悟り、我執を去るというのがあります。
しかし、この我執を去るというのが難しいのです。
自力では不可能です。
なぜならば、自力ということ自体がすでに我執を立てているからです。
しかも我執を捨てない限り、安心立命はあり得ない訳ですから、では一体どうしたら良いのでしょうか。

結局、信以外にはあり得ないのです。
絶対なるものに身をまかすことによって、初めて我執を去ることが出来ます。
ですから、念仏とは解脱への最短距離といえるかもしれません。

それでは自力による善行為は全く無意味なのでしょうか。
やはりそうではなく、心の世界はそう単純に割り切れるものではなく、あくまで力点の相異によるものと思われます。

しかも、信の重要性については、浄土宗のみならずあらゆる宗派、宗教に一致した見解であるのも確かです。
ただその対象をどこに求めるか、あるいはどのような行を優先するか、またどの教えを根拠にするかによって違いが出てくるものと思われます。

人それぞれ、考え方が違いますが、目的は心の安定を得ることですので、自分に合った教えを採れば良い訳です。

さて、法然は念仏を学問の無い凡夫のための教えとしながらも、実は、これこそが究極の教えであると確信していたと思います。

ただ、念仏以外の行を全て無意味とするのは行き過ぎのような気がします。
前述の「善人なおもて、、、」と同様、極端な表現方法なのかもしれませんが。

念仏は特効薬ではありますが、普段の養生も大切です。
歎異抄にも、薬あるとて毒のまず、と言っています。

念仏はすぐれた教えであることは間違いありませんが、誤解されやすいのも確かです。
でなければ、歎異抄も書かれることは無かったでしょう。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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