救われる道

我々は生きていく上で様々な疑問に突き当たります。
その最大のものは、やはり世界の根本問題でしょう。
世界の初めや終り、あるいは自分は何処から来て何処へ行くのか、といった疑問。
現象界を客観的に見る限り、世界には何ら確固とした不動の基点などはなく、すべて相対的にあるにすぎません。
正に、夢まぼろしのごとくです。

ところで、世界とはもともと仏教の言葉で、世は時間、界は空間を意味しているそうです。
ただ、仏教でいう世界とは物質界だけではなく、精神界も含めた一切現象を指しています。
我々が世界と言った場合、物質的な世界を意味しますが、仏教でははるか昔から精神界もその中に入っていたのです。

西洋では近代になってから、カントなどの認識論によって本格的に心の世界が分析されるようになりましたが、仏教では既に、竜樹や世親の中論、唯識論などによって、かなり厳密に論理が展開されています。

さて、カントによると世界の根本的な矛盾は、理性によっては解決されず、実践によってのみ、即ち心の世界でのみ解決が可能であるとしています。

仏教でも、人間の思惟は相対的な言語や文字に依るものであるから、ものの真実を捉えることは出来ないとしています。
仏教で言う、縁起とか空もその辺りのことを言い表そうとしていると思います。
縁起とは、世界の森羅万象は各々独立して存在しているのではなく、お互いに相依って存在していること。
また空とは、人間の思惟は相対的な言語や文字に依るものとして、思惟による倒錯した見方を正すことによって、真実を見ようとすること。
もちろん、これは私の解釈ですが。

要するに、真理は理性によって捉えることは出来ず、実感として体得する以外になく、したがって真理とは心の在り方を指す言葉だということです。
仏教の涅槃(ニルヴァーナ)とは正にこの境地だと思います。

それにしても、解答のない疑問がなぜ生じるのでしょうか。
どう考えても正当な疑問です。
世界とは何か、自分とは何かと問うのは当然であり、この解答無くして真剣に生きることなど出来ないはずです。
しかし解答が無いのは残念ながら事実です。
だとすれば、疑問の出し方が間違っているのでしょう。
我々の認識はあくまで相対的な言語や文字で成り立っています。
したがって、いわば虚構の世界に生きているのです。
我々が呈する疑問は虚構の世界の疑問であり、絶対的な世界の解答を相対的な言葉で受け取ろうとすることです。
と、説明する以外にないでしょう。

いずれにしても、我々は理性に基づいて生活しているのであり、理性によって日々の行動を判断し、決定しているのです。
他の動物のように、短絡的な本能や衝動によって動いている訳ではありません。
もちろん、根底にはあるでしょうが。
ですから、たとえ相対的であるにせよ理性を捨て去るわけにはいかないのです。

ただ問題は理性が他の動物と同じように、本能に奉仕しているだけなら矛盾は生じませんが、人間には動物的な本能とはまた別種の要求があるのも事実です。
たとえば、悪を憎み善を求める心、勇気とか自己犠牲、慈悲とか博愛、動物的な欲望への嫌悪感、心の清潔あるいは清浄さを求める、等々。

そして、これらの要求は動物的な本能とは全く正反対の要求であり、動物的な本能を否定するものです。
もちろん、個人差があり、全ての人が同様にあるとはいえませんが。
ともあれ、この要求は微細であり、普段は動物的本能の影に隠れてあまり表に出ることはありません(私の場合)。

さて、人間は理性(知性)によって絶大な力を得、万物の霊長となったわけですが、同時にあらゆる矛盾をも暴露してしまったのです。
生老病死などの苦が避けがたいこと、動物的な欲求を満たしても必ずしも幸福になれないこと、この世がうつろいやすくはかないことなど。

そして、ことここに至って初めて動物的な欲求以外の要求、すなわち心の要求に目を向けることになるのです。
心の要求とは前述の善への希求などですが、この心の要求そのものは動物的な欲望のように激しく表れるのではなく、静かで、穏やかな要求として、しかし確固としてあるものです。
そしてそれは、そのもの自体で顕われ出るというよりも、他のものを取り去ったときに顕われ見えて来るようなものです。

さて、この状態を如何に解釈すべきでしょうか。
人間には二通りの要求があり、一方は動物的な欲望、すなわち肉体の生存に関する欲求。
もう一方はまったくそれと正反対の要求。

前者については疑問の余地は無いように思えます。
いわば当たり前のことであり、人間も動物である限り当然の要求です。
問題は後者です。
いったい、この要求は何処からきているのでしょう。
前者は人間の個体としての意志であり、現象界に表れる他の様々な個体の意志と同様、その個体そのものの意志であるとするならば、後者はむしろ世界の本源から直接来た意志そのものといえるのではないでしょうか。

個体としての立場から見た意志と、世界全体から見た意志では当然違います。
世界全体から見れば、個々の存在の区別は消滅し、全て世界の中に包摂されて、同胞としての意志、すなわち世界の根源そのものの意志となります。

したがって、我々の中には個体として意志と、世界の根源からの意志の二通りの意志があるということになります。
もちろんこれは一つの解釈であって、どのように見るかはその人の自由です。
また、世界の根源を神とか仏、あるいは道とするかは、これまたその人の考え方によって違うでしょう。
ただ確かなのは、善の意志がまぎれもなく在るということです。
たとえわずかであるとしても。
そしてこの善の意志を実践することによって、その本源を覚知することができるのです。

我々は個体としての意志に従っている限り、生存の苦しみから逃れることは出来ません。
善の意志を実践し本源(心源)を覚知することによってのみ、あらゆる苦悩より脱却できるのです。

ところで、カントは認識論的な立場から道徳律という概念に到達しましたが、一方人間としての切実な問題、すなわち苦しみや不安からの脱却といった観点が欠如しているように思われます。
また、意志という概念はあまり登場しません。
意志といえばショウペンハウエルを思い出しますが、しかしショウペンハウエルの意志の中には善の意志という考え方は無いようです。
もともと少なくて見えなかったのかもしれませんが。

さて、話は戻りますが、我々は理性に基づいて生活しているのであり、理性によって日々の行動を判断し、決定している訳ですから、最終的に選ばれる道は当然、善への意志の遂行となるでしょう。

実際、我々は不安や恐怖心から神や仏に救いを求めるのであり、そしてそれ以外に救われる道があるとは思われません。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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