信じるということ

「信という字は、まかすと読むのである。他人の意向にまかせるから、信という字は人偏に言と書く。我々はとりもなおさず法にまかすべきである。」と、これは一遍上人語録の中に出てくる言葉です。
一遍は法然、親鸞から出ながら、独自の浄土思想を創出した人です。

私は若い頃から一遍上人語録をいくたびも読み返しています。
私は十年ほど前に、今まで読んでいた思想関係の本を、数冊を残して全て処分してしまいましたが、この書は、その数冊の中に入っていたことになります。
なぜ本を処分したのかといえば、本の中に人生問題の解答は無く、迷いを深める結果に終わったからです。

一遍上人語録は、その弟子が一遍の言葉を記録したもので、それほど大部なものではないのですが、浄土宗あるいは仏教の本質を端的に表現しているように思います。
一遍は浄土思想を、法然、親鸞の著作などとは、また違った切り口で解釈しています。
一遍の考え方は仏教の中でのみならず、世界の最先端を行く思想ではないかと密かに思っています。
もちろん、念仏宗自体が、先端的な教えであることは間違いありませんが。

そして、その教えの中でも最も重要な概念として、信があります。
なぜ、信がそれほど重要なのかといえば、信は宗教の核心だからです。

さて、仏教には漸行と頓行というのがあります。
漸行というのは徐々に悟りに至る道で、戒律を守ったり、善行をしたり、正しい教えを聞いたりする修行方法です。
また、頓行というのは即座に悟ることです。
普通、悟りというのは非常に難しく、長い年月をかけて修行しても、悟ることは困難であるとされています。
しかし、それが一瞬にして悟ることが出来るというのです。
しかも、簡単な方法で。
テレビのコマーシャルではあるまいし、そんないいことづくめの話など信用できないと思うのはもっともです。

しかし、それを考えだした人達は、簡単にではありません。
いわば苦心惨憺の末にたどり着いた教えなのです。
浄土宗の開祖法然は、自戒厳しい清僧であり、その知恵は勢至菩薩の生まれかわりとされたほどです。
その法然が一切経を七たび繰り返し読んでも、出離の要道を得られず、念仏によって初めて決着をみたのです。

さて、漸行と頓行は浄土宗だけの考え方というわけではなく、禅宗でももちろんあります。
道元の曹洞宗も頓行だったと思います。
(昔読んだ書物の記憶をたよりに書いているので、間違えたらごめんなさい。)
禅宗においても、信は重要であり、仏道を信じることが、修行の眼目とされています。
ただ、禅宗の行は簡単とは言えませんが。

道元の話が出たついでと言ってはなんですが、正法眼蔵の現成公按に、宝徹禅師の扇の話がでてきます。
禅師が扇を使っていたところへ、僧が来てたずねた。「風は常に存在するのに、なぜその上、扇を使うのか」
禅師が答えて言う「あなたは風が常に存在していることは知っているが、行き渡らない所はない、という道理が分かっていない。」
僧が再びたずねる「行き渡らない所はない、という道理とは何か」
禅師は答えず、ただ、ひたすら扇を使うのみ。

「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」とは禅宗の奥義ですが、その言わんとしているところは、浄土宗と大差はないと思います。
禅宗はもともと、言語や文字を信用しておらず、経典すら重要視していません。
直接自分の心を見よ、というわけです。

禅宗は座禅が主要な修行ですが、必ずしも座禅することによって悟りに至るということではなく、座禅すること自体が悟りを証する、ということのようです。
いわゆる自受用三昧で、悟りを自ら証し、自ら受用し体現することです。
すなわち、漸行ではなく頓行ということになるでしょうか。

さて、先ほどの宝徹禅師の扇の話ですが、結局何がいいたいのかといえば、「仏性は誰にも生まれながらに備わっているけれども、修せざるには顕われず、証せざるには得ることなし」ということだと思います。

ところで、禅宗は修行者のための教えという感じがします。。
出家して、良き師について修行し、悟りを得る、ということですので、一般の在家の人にむいているとは思えません。
在家の人はもっぱら、専門家である僧を敬い、その教えを受けるということになるでしょう。

その点、浄土宗は凡夫のための教えとしているだけに、やさしい行となっています。
ただ、法然みずから自分は凡夫と称しているのですから、この世に凡夫でない人がいるのかどうかは分かりません。

さて、話がもどりますが、はたして人間は修行して悟り、仏や神になれるのでしょうか。
キリスト教では、死後、神のもとに召されるということで、神になるとは言わないようです。
仏教では、ブッタとは、もともと覚者を意味する言葉ですから、悟れば仏になるのは当然です。
問題は、この世で悟って仏になることが本当に出来るのかということです。
釈迦は悟りを開いて仏になったわけですから、当然ですが、普通一般の人が仏になれるのかどうかです。

浄土宗では、はっきりこれを否定し、仏になるのは死後のこととしています。
人間が生きている間、すなわち肉身のままで仏になるのを、即身成仏といいますが、主に密教や法華経の考え方だそうで、禅宗にもあるそうです。

ここで私の考えをいうならば、私は生きたまま仏になるのは不可能だとみています。
我々は相対的な意識から逃れることは出来ず、肉体的な欲望から解放されることもないからです。
我々が出来るのは、絶対的なもの(神とか真如)を相対的な意識の中に取り入れることと、善なる意志の実践に尽きると思います。
すなわち、神や仏を信じ、その教えを守り、行動することです。

また、仏教の宗派の違いを論じることは、あまり有益なこととはいえません。
迷路の中に迷い込むようなもので、抜け出ることが難しいからです。
細かい教義の違いに気を取られることによって、大筋からはなれ、見失うこともあります。
この世に完璧な教えなど無いと割り切ることも必要でしょう。
それに、人それぞれ考え方が違いますし、修行の仕方も違ってきます。
厳密に言えば、法然と親鸞でも違っているのではないでしょうか。
同じ山に登るにしても、頂上に至るコースは幾つもあるわけですから。

さて、本題の信ですが、原始仏教ではあまり採り上げていませんが、もちろん根底にはあるでしょう。
中国古代の思想、孔子や老子の教えなどは、もっぱら徳目の実践が主で、その根拠として天命や道などがあります。
仏教でも、心の問題を掘り下げて考えるようになるのは、後代のことで、初めの頃はやはり実践が中心であったと思われます。
古代ギリシャでは信仰自体をそれほど重要視しているわけではなく、むしろ知識の方を上位と考えていたようです。
信仰あるいは信心が強調されるようになったのは、キリスト教や仏教後代の浄土宗あたりではないかと思います。

ところで、人間の心の中に真実を探し求めても、どうしても越えられない壁があります。
人間の意識が有限で相対的であるために、、無限で絶対的な真理を見ることは出来ません。
ですから、それを言い表すに場合にも、相対的な言葉を用いる以外にないのです。
いわば、象徴的な言語ということになります。
いわゆる、神、仏、天、道、などです。
これらは、見ることも、聞くことも、触ることも出来ない、推論で導かれた抽象的な概念です。
したがって、確証は無く、唯、自分の心に聞くしかありません。

また、仏教では無念無想、心頭滅却など、無心がそのまま仏の世界である、という考え方があります。
中国唐代末期の禅宗の僧の語録、臨済録はほとんど全編この一事のみに言及しているといってもよいほどです。
臨済によると、「我々は本来、無依の道人(真実の姿、または世界の主宰者)であるのに、なぜその上、仏や法を求めるのか。求めることをやめ、よけいなことを考えなければ、それがそのまま真正の見解である。」としています。
しかしながら、我々が実際にどうしたらよいのかは説かれていません。

そこで、信の重要性が改めて浮かび上がってきます。
信以外にこの壁を乗り越える道は無いように思われます。
我々は真理をつかむために、理性によってぎりぎりのところまでいくのですが、最後はそのつかんだ手をはなさない限り、解脱は出来ないのです。
空中に身を投げ、何ものかに身をまかすということ、つまり仏(神)を信じ、法にまかせるということです。

ただし、信はもろ刃の剣です。
まかり間違えれば、神を信じるつもりが、悪魔を信じてしまうかもしれないのです。
過去にも宗教による悲惨な例がいくらでもあります。
どの宗派でも、教義自体は象徴的な言葉で語られるために、聞きようによっては、どのように解釈することも可能です。

我々は自分が納得できる道を、理性によって、みずから探し出す以外に方法はないのかもしれません。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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