死ぬと無になる?

人間は死ぬと無になるといいます。
我々はそれで一応納得しています。
それでは、無とは一体何でしょう。
無とは、普通、数字のゼロを思い浮かべます。
しかし、数字のゼロは他の数に対するゼロですから、ゼロが有るということです。
無ということも、有に対する無ですから、無が有るということです。
しかし、無が有るとは普通言いません。
無になるというのは、無という状態になるのではなく、何も無いことです。
何も無いということは、無いということも無いのです。
したがって、有るのは有だけです。
ですから、人間は死んでも、無にならない。

人間が無にならないとしたら、一体何になるのでしょう。
有が無になることはないわけですから、当然有でしょう。

しかし、ことはそう簡単ではない。
有も無に対する有だから、無がないとすると、有もない。
有無が無いとすれば、生死もない。

そもそも、有無も生死も我々の意識の中だけの話です。
意識を失えば、有無も生死もへったくれもありません。

問題は我々の意識の中で、いかに整合性を保つかということです。
意識の外の話は我々に関係ないのです。

さて、生死が我々の意識の中だけの話であるならば、実際に起こる死はどう解釈したらよいのでしょうか。
肉体に変化が起こることは確かです。
今まで動いていたものが動かなくなるわけですから、動いていたとき、マイナス、動かなくなったとき、イコールの答えが、何処かへ去ったことになります。
肉体が分解してしまうのですから、当然意識も消えてしまいます。
我々は意識のない状態を知っています。
眠りに、気絶、そして生まれる前、知っているというよりも、空白があるだけですが。

この場合は記憶の無い状態を、無と言っているわけですから、記憶のある状態に対する無となります。
したがって、無という状態があるということになります。
いかし、人間が死ぬということは、記憶のある状態もない、つまり比較する主体自体がないわけですから、有無自体が消滅してしまいます。

有無自体は意識の中だけでの話で、真の無は意識の外にあります。
真の無は認識することが出来ないし、想像すらできない。
無を捉えようとすると、とたんに有無の無、すなわち、有に対する無、有限な無になってしまいます。
意識が働いている限り、我々は相対的、すなわち有限な世界から抜け出ることは、出来ません。

意識が停止したときが、真の無の状態であり、有無を離れたことであり、したがって生死もないということになります。
ただ、眠り、気絶、死、は意識が停止した状態ですが、意識とは無関係です。
意識的に、眠ったり、死んだ状態になることは出来ません。
意識を意識的に停止することによって、意識の無い状態を意識的に作り出す。
もしかしたら、これが座禅の奥義かもしれません。
しかし、だとしたら、あまり意味があるとは思えません。
一時的に無の状態になったところで、元に戻れば、元の木阿弥になってしまうからです。
もちろん、座禅の奥義はこのようなものではないでしょう。
死して生きる、と言われるように、己を全て捨て去った後、顕われ出る命を感じ取ることだと言われています。

さて、この意識、自分の意識と思っていますが、実はその構成している要素は、ほとんど他人のものです。
我々は生まれてから、この方、周りの人から、言葉や知識、そして情報を得て今日にいたっています。
この中で、自分独自で考え出したものはどれだけあるでしょうか。
おそらくほとんどないでしょう。
せいぜい、概念の組み合わせを変える程度でしょう。
ですから、たとえ自分の意識が消え去ったとしても、失うものはほとんどありません。
私は日本語をしゃべっていますが、私が日本語を考え出したわけではありません。
私が死んでも日本語が消え去るわけではないのです。

それはともかくとして、有無を離れ、我々の認識を超越した状態を、我々はどうしても想定せざるを得ません。
それを仮にXとするならば、このX無くして、我々の意識の整合性を保つことが出来ないのです。
人生の根本問題を追及していくと、最後は必ずこのXに突き当たります。

結局、我々の認識は有限であり相対的であるとしか言いようがありませんが、例えて言うなら、我々の認識は、自然を描いた絵のようなもので、どんなに似ていようと、自然そのものではありません。
自然そのものは、あくまでXなのです。

そして、さらに重要なことは、我々自身が自然そのものであり、我々の本質自体がXであるということ。
自分とは何か、を追求していくと、その追求している自分自身は認識できないことが分かります。
我々が認識出来るのは、認識するものの対象であり、認識するもの自体は見ることが出来ません。
認識するもの自体はXなのです。

さらに言えば、実は不可知なXこそ真実在であり、我々の意識、すなわち認識こそ虚構であるということ。
したがって、有無も生死も、我々の意識の中でのみ通用する言葉にすぎず、真実在には、あらゆる言葉の概念もあてはまりません。

我々が差別相対的な意識を離れ、己の本分に帰するとき、真実在を覚知することが出来ると言われています。
このことを、臨済録では繰り返し述べています。
すなわち、よけいなことを考えなければ、それがそのまま絶対的な世界であるとし、あれこれ迷って、真実を追い求めている当の自分こそ真実在そのものであるとしています。
また、一遍上人はその語録の中で、「万法は一心であるといっても、その一心はみずからその本性を顕現することはない、自分の目で自分の目を見ることができず、また木に火の本性があるといっても、その火がその木を焼くことができないようなものである。」続けて、「大円鏡智の鏡を近づければ自分の目を見ることができるし、別の火をもってすれば木を焼くことができる。」そして大円鏡智の鏡と、別の火とは、とりもなおさず名号(念仏)であるとしています。
ここで言う自分の目とは、自分の本性のことであり、木を焼くとは、煩悩を焼き尽くすということです。

さて、人生の先達たちもこのように、壁に突き当たり、それを乗り越えようとして苦心してきたわけですが、その方法や見方については、またそれぞれです。
あるものは念仏によって、またあるものは座禅によって、さらにまたあるものは加持祈祷によって、その佳境に至らんとしたのです。
宗派によって、教えや行法は違いますが、要は目的地に到達できればよいのですから、歩いて行こうと、車で行こうと、船で行こうと、はたまた飛んで行こうと、何れでも差しつかえないわけです。

私個人としては、老子の道のような、漠然とした考え方の方が合っている気がします。
すなわち「夫れ物の芸芸たるも、各々その根に復帰す。根に帰るを静といい、これを命に復るという、云々」といった、万物の始原への回帰思想です。

いずれにしても、人生の根本問題の解決への道は、この壁を避けては通れないようです。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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