善と悪(2)

さて、では具体的に悪とは何をいうのでしょうか。
仏教では五悪がよく知られています。
五悪とは殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、飲酒(おんじゅ)のことをいいます。
キリスト教でもほぼ同じでしょう。
我々の良心と照らし合わせても異存はありません。

ではこれらの項目を一度も犯したことのない人はいるでしょうか。
たとえば、殺生とは、生き物を殺すということですが、まさか人間を殺す人はいないでしょうが、害虫やねずみは殺すでしょう。
それに、魚や肉を食べるということは、間接的にもせよ動物を殺していることになるのです。
それから偸盗とは、人のものを盗むことですが、現在では物があふれていますので、法を犯してまで盗みをする人はあまりいないと思いますが、でも切羽詰まれば、どうなるか分かりません。
かつて、イタリア映画で「自転車泥棒」という映画がありました。
善良な男が自転車を盗まれ、切羽詰まったあげく、今度は自分が他人の自転車を盗んでしまうという話です。
現在ではあまり実感がわきませんが、当時は貴重品だったのでしょう。
それにしても、人間は窮地に追い込まれれば、善良な人でも泥棒をすることがあり得るということです。
次に邪淫ですが、邪淫とは配偶者以外のものと性関係をもつことだそうです。
これも身に覚えのある人は少なくないでしょう。
つづいて、妄語とはうそをつくことであり、飲酒とは読んで字のごとくです。

以上五悪といわれる代表的な悪ですが、この他にも数え上げればいろいろあるでしょう。
というわけで、我が身を省みれば、私も充分悪人であることが納得できる次第です。
ただ、これらは道徳上から見た悪であり、他人に害を及ぼすような法律上の犯罪とは必ずしも一致しているわけではありません。

さて、悪をなしたものは当然その報いを受けるわけですが、法を犯した者は法によって罰せられ、道徳上の悪は自分の良心から責められることになります。
法的な悪と道徳上の悪とは同じ悪でも性質がちがいます。
法律とは社会生活を営む上での掟であり、ルールですからそれに違反したものが悪です。
現実に犯罪が起きている以上、「人間は本来善である」などとのんきなことを言ってられませんので、法によって厳しく取り締まらなくてはなりません。

一方の道徳上の悪ですが、実はこれこそ人生論で取り扱う悪なのです。
法的な悪は、あくまで人間同士の利害関係であるのに対して、道徳上の悪は自分の良心が相手です。
さて、良心とは、一種の感情にすぎないという人もいるかもしれませんが、もし良心が人間の心に無かったら、この世は暗黒の世界になるでしょう。
人の良心を感じて、ほっとしたと思うこともあると思います。
また、良いことをしたあとにすがすがしい気分になったこともあるでしょう。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは時折「ダイモニオン」という心の声を聴いたといいます。
それが彼の考え方や行動の重要な指針になっていました。
それは、常に何事かを止める形であらわれ、何かをすすめる形ではないということです。
私はこの「ダイモニオン」は良心のことだと思います。
ソクラテスのみに聞こえた訳ではなく、全ての良心のある人にささやきかけてくる心の声です。
それが常に止める形であらわれるというのは、良心は常に動物的本能の抑制としてあらわれるからです。
動物的本能自体は善でも悪でもないのですが、それが良心の許容範囲を超えた場合に悪となりえるわけです。

ソクラテスは死刑によってこの世を閉じることになるのですが、その罪状は「国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」ということのようです。
そこで、罪を認め、謝罪すればことは済んだのでしょうが、ソクラテスは自説を曲げず、自説の正統性を主張し、そのためには死すら恐れないと言明したのです。
そう決断したことの背景には「ダイモニオン」による反対がなかったからだといいます。
実際彼は進んで死を受け入れ、平然としてこの世を去るのですが、もしこの事件がなければ、彼が後世に名を残すことは無かったでしょう。

哲学とか宗教、あるいは人生論と呼ばれるものは、多くの人によって語られています。
しかし、その真偽を確かめるのは簡単ではありません。
唯一その教えが正しいと判断できる根拠として、命を懸けているかどうかです。
といっても、その教えが全ての人に真であるとは限りませんが、少なくとも本人にとっては間違いなく真理なのです。
哲学あるいは信念とは科学などの学問とは違い、生き方の根本に関わる問題ですので、理詰めで推し量ることは出来ませんし、また全ての人が同調するとは限りません。

その教えの目的が死の恐怖心の克服であるならば、ソクラテスが死を恐れず、平然として受け入れたということは、その言説がソクラテスにとって真理であることを物語っているのです。
そして彼を死を前にして平然とさせていたのは、「ダイモニオン」、即ち良心ではないかと思います。

さて、良心とは真実の心であり、仏教の慈悲やキリスト教の愛に通じるものです。
仏教でいう真如、自性清浄心、仏性、などと同義語であり、キリスト教では神の意志、あるいは声としてその本源を神としています。

というわけで、人間の善なる心とは良心であり、良心とは我々にささやきかけてくる永遠不滅の実体からのメッセージではないでしょうか。
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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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