仏教の空とは

前回も話した通り、二十歳頃トルストイやパスカル、あるいはショウペンハウエルなどを読んでいたのですが、いづれも共感はしたものの、人生の謎が全て解けたわけではありません。

その頃、「仏教の思想」という書が出てきました。
仏教を思想として捉え、インド仏教、中国仏教、日本仏教とそれぞれの専門家が解説し、それを西洋哲学を学んだ人が独自に読み解くといった構成です。
全十二巻でしたが、刊行されるたびに読んでみました。
私はこれで人生の疑問が解決するのではないかと期待したのですが、結局解決には至りませんでした。

ただ、第三巻の空の論理「中観」には引きつけられました。
それまでにも私の頭の中で漠然とした同じような考えがあったのですが、それが仏教の中核と目される人、即ち龍樹によって裏打ちされたのです。
それは言葉の虚構性ということです。

龍樹の著作「中論」の初めに、「八不中道の戯論寂滅の縁起を説いた仏に帰依したてまつる」と書かれています。
「八不中道の戯論寂滅の縁起」とは専門的には色々解釈があるでしょうが、要するに、これは臨済語録で繰り返し述べられている「よけいなことを考えなければ、それがそのまま絶対の境地である」と同じ意味だと私は思います。

我々は言葉によって思考しているわけですが、しかし言葉というものは、現象界の物事を象徴的に捉えて、それを概念とし、固定化するものです。
人間同士の意志疎通を図る一種の記号みたいなもので、決して自然界の現象そのものではありません。
我々は言葉に対応する実体が在るかのごとく錯覚しているのです。
いわば、言葉によって作り上げた虚構の世界に生きていると言えます。
ですから、我々の迷いや矛盾は実際の世界と思考の世界とのずれによって生じます。
たとえば、生と死、自分と他人、時間と空間など我々の思考の根幹をなす概念は全て虚構ということになります。
真実の世界は万法一如、即ち全てが一体であり区別などないのです。

さて、今手元には「仏教の思想」の本は無く(以前処分してしまったので)、たまたま岩波文庫の般若心経がありましたので、これを参考にして考えてみようと思います。
般若心経とは、もちろん大乗仏教の根本思想である空の理法を簡潔に書き表した経典です。
仏教に関心のある人で空を知らない人はいないと思いますが、では空とは何かと問われれば、的確に答えられる人は少ないでしょう。
私もおぼろげながら分かってきたのは最近のことで、以前は解説書などを読んでも意味が今一つ納得出来なかったのです。
そもそも解説書を書いている人が分かっていない場合が多いのですが。

般若心経と言えば、玄奘三蔵の漢訳で色即是空として知っている人も多いと思います。
しかしこれを読んだだけでは意味はほとんど分かりません。
この文庫本にはサンスクリット原本からの訳がありますので、そちらを見てみます。
すると、色即是空とは「物質的現象には実体がない」ということのようです。
ただ、その前後に同じような文字が並んでいます。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、さらにもともとは色性是空、空性是色、の文字が上についていたらしいとのこと。
これらの文字をいろいろと解釈している人もいるようですが、私は同じ意味の言い換えにすぎないと判断しています。
同じ意味を角度を変えて表現しているのでしょう。
続けて、「受想行識もまたかくのごとし」、即ち「感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである」とし、さらに「是諸法空相」、即ち「この世においては、すべて実体がないという特性がある」と続きます。
その後、ほとんど同じ意味のことを繰り返し、だから、般若波羅蜜多(知恵の完成)によって、この上ない正しい目ざめを覚り得られた、と結びます。

さて、ここまで読んでくると、前述した私の空の解釈と大きな違いは無いように見えます。
ただ、この後が問題です。
なんと呪文が出てくるのです。
確かに、真理は言語を超越した神秘の世界であることは間違いないと思いますが、いきなり呪文とは一体どういうことでしょうか。
それまでかなり論理的に話を進めて来ているのに、突如として訳の分からない言語の羅列がでてくるのです。
本来、この部分は真言として訳さないのが通例になっているそうですが、この文庫本では原本からの意訳を試みています。
参考までに書いてみますと、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、 さとりよ、幸いあれ)となっています。
呪文だから全く意味不明かと思いきや、多少なり意味があるようです。
一種のスローガンのような感じもしますが、言葉そのものには大した意味があるわけではなく、唱えることに意義があるのでしょう。

さて、私は以前より、般若心経のこの部分、即ち呪文の部分が唐突に出てくるのに違和感を感じていました。
ところが、この項を書くにあたって、インターネットでいろいろ調べているうちに、ウィキペディアの般若心経のページに以下のような記述がありました。

~『般若心経』は一般には600巻に及ぶ『大般若波羅蜜多経』の心髄を治むといわれているが、『大般若波羅蜜多経』及び『摩訶般若波羅蜜経』からの抜粋に『陀羅尼集経』に収録されている陀羅尼を末尾に付加したものである。~
~一般的には般若心経は空を説く経典であるとされる一方、これを否定して陀羅尼の経典であるともいわれている。~

なんと、般若心経は般若経の心髄を表したのではなく、陀羅尼(呪文の一種)経の経典であるとしています。
しかも、これを言っているのは、あの弘法大師空海だそうです。
弘法大師といえば日本を代表する僧であり、その説を真正面から反論する人は少ないでしょう。

ところで陀羅尼とは、同じくウィキペディアの陀羅尼のページに、
~本来、陀羅尼は暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした~
とあります。
であるならば、別に何の不思議も無い訳で、真如に対する呼びかけ、あるいは神に対する祈りの様なものかも知れません。

私は陀羅尼(呪文)を否定している訳ではなく、何らかの行がなければ、迷いから抜け出ることは出来ないと思っています。
ただ頭で空の理法を理解しただけでは、心の平安を得ることが出来ないのです。
このことに突き当たって初めて陀羅尼が理解できるのかも知れません。

般若経の空の理法は、言葉の虚構性という考え方がなければ、理解することは出来ません。
陀羅尼は言葉の虚構性を打ち破る、有効な手段として、位置づけてよいのかも知れません。


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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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