死を選ぶということ

私のブログもだいぶ回を重ねてきまして、読んでいただいている方も増えているようで、まことにありがたいことですが、ところが先日めずらしくコメントが入っていました。
その内容は「その矛盾に縛られて自殺しようとは思わなかったのですか?」といういささかショッキングなコメントです。
文章が簡略すぎて、真意ははかりかねますが、想像を交えながら判断して、一応解答は書いておきました。
ただ、自殺という問題はかなり深刻な問題ですので、軽々しく話題にすることは出来ませんし、口にすべきことでもありません。
私自身、自殺という問題に対して確固たる考えを持っているわけではありませんが、心の痛む問題であることだけは確かです。

確かに、私のブログは悲観論的、厭世的な言葉が多いですが、これはあくまでそこからの脱却を意図しているわけで、人間としての正しい生きる道を模索するのが本意です。
自殺をすすめたり、自殺がこの世の矛盾から脱却できる手段であると言ったことはありません。
自殺することによって、あとに残された人は当然その苦しみを引き継ぐことになります。
そういう意味では自殺は悪であると言えなくもないでしょう。

ただ、自殺に至る過程は様々であり、一概にこれを悪であるとか、迷いであると言い切ることもできません。
覚悟の自殺もあるし、善意からの自殺もあり得るからです。
たとえば、何らかの責任をとっての自殺とか、良心の呵責に耐えきれずに死を選ぶとか、自己犠牲による死などです。
また、不治の病に罹り、周囲の人に負担を掛けるのに忍び難く、死を選ぶ人もいるでしょう。
さらにはまた、政道を正すために身を持って諌めるという忠義の人もいるかも知れません。

しかし、一般的に自殺と言えば、厭世観に基づくものがほとんどではないでしょうか。
失恋、事業の失敗、病気、借金など身近な問題が多く、前述のような人生の矛盾を感じての自殺というのは少ないでしょう。

さて、「自殺について」といえばショウペンハウエルを思い出しますが、私も若い頃これを読んで、共感した思い出があります。
ただ、ショウペンハウエルはあくまで傍観者の立場で自殺を論じている訳で、ある意味では無責任であるともいえるでしょう。
自殺は悪ではないとして、死は良き友達と言っている訳ですから。
ショウペンハウエルはまた、人間の恐怖心や苦痛が、死の恐怖心を超えたときには、人は躊躇せずに死を選ぶであろう、と言っています。
これはおそらく、間違いないかも知れません。
私自身、大病を患った時に、あまりの苦痛のため、死すら望んだ経験があります。

また、仏教では、生に執着するのも、死に執着するのも、共に誤りであると教えています。
生死を超えた生き方こそ正しい道であるとしています。
私もまだ実感として、その境地に達してはいませんが、そういう生き方があると信じています。

ところで、人間は徹頭徹尾、自分の意志で生まれてきたわけではありません。
それなのに、死だけは自分の意志で決めるというのは何か不自然な感じがします。
それに、我々は死が如何なるものかを知りませんし、死がこの世からの解放かどうかも実は分からないのです。
死など無いのかも知れません。
永遠に生のみがあるのかもしれないのです。
たとえば、別の人間として生まれ変わるかも知れませんし、他の生物として生まれるかもしれません。
人間が無から突如として生まれ、突如として無になるという考えより、よほど自然であると思います。

秋の木枯らしは落ち葉を舞い上がらせます。
もちろん、風が落ち葉を動かしているのあって、落ち葉が自分で動いているわけではありません。
風が止めば、落ち葉は静かになります。
しかし、風の本体である空気が無くなったわけではないので、繰り返し風となって、落ち葉を舞い上がらせることでしょう。

さらにもう一つ。
秋になると、木の葉も枯れて落ち葉となります。
しかし、春になれば、新たに芽が出てやがて若葉となります。
秋に落ちた枯れ葉と、春に出てきた若葉は同じものではありません。
しかし、全く違ったものでもありません。

さて、人間の世界でも死にゆく人もあれば、生まれてくる人もいます。
この両者が全くの別人だと考えたとしたら、それは明らかに間違いでしょう。
姿かたちは違っていても、同じ生命の本源を有しているであろうことは、容易に推察できるからです。

というわけで、この問題は快刀乱麻を断つようにはいかないようです。
結局のところ、最終的には心の問題になりますので、どのように考えたら心が落ち着くのかというところに帰結するのだと思います。
しかし、いづれにしても死によって、人生の矛盾を解決しようというのは、ちょっとさみしい感じがします。

ところで、ここで、ある人の言葉を思い出しました。
誰の言葉だったか思い出せなかったのですが、インターネットでこの言葉をそっくり検索してみたところ、一遍上人語録に出てくる空也上人の言葉だとわかりました。
さすが、インターネットはすごいという感じですが、こと心の問題に関しては、遠い過去の人にも及ばないというのも皮肉な感じがします。
さて、この言葉とは
「三業(身と口と心の働き)を天運 に任せ、四儀(行住坐臥のふるまい)を菩提に譲る(仏道に捧げる)」という一節です。
一遍上人は空也上人を大変尊敬していまして、空也上人の言葉を覚え込まれていて、時折口に出していたということです。
一遍上人によると、「信とは法にまかせることであり、衣食住は天運にまかせなければならない」として、「空也上人のこの言葉は他力に帰入したありさまである」と説明しています。
空也上人はまた、ある人から、念仏はどのように申したらよいかと問われて、ただ「捨ててこそ」とだけ答えられて、その場を立ち去ったそうです。

さて、今回は気の重い題となりましたが、人生、あまりあれこれ考えずに、全てをなげうって、成り行きに任せるのも必要なことかもしれません。

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成り行きにまかせてでも、生きることはあまりにも辛いです。
ですが死ぬ勇気はありません。
どうしたらよいかわかりません。

Re: タイトルなし

> 成り行きにまかせてでも、生きることはあまりにも辛いです。
> ですが死ぬ勇気はありません。
> どうしたらよいかわかりません。

コメントありがとう。
私は真剣な問いには真剣に答えるつもりです。
ブッタは、この世は苦であると言っています。
ただし、一方において真実の世界は清浄で寂静な絶対世界であるとも言っています。
我々に、この真実の世界が見えないのは、我々の思考(妄念)によるからだと思います。
我々の考えは、良きにつけ悪しきにつけ、迷いであるからです。
本来、この世は、清浄な絶対的な世界であると信じて、思考(妄念)の停止を心がけてはどうでしょう。

そもそもなぜ死ぬことが悪いことでいきることがよいこととされているのかわかりませんね。私自身もうすぐ死ぬつもりですが自殺はむしろ推奨されるべきことだと固く確信しています。

Re: タイトルなし

> そもそもなぜ死ぬことが悪いことでいきることがよいこととされているのかわかりませんね。私自身もうすぐ死ぬつもりですが自殺はむしろ推奨されるべきことだと固く確信しています。

死は人間にとって不可知であり、孔子が「未だ生を知らず、いずくんぞ死をしらんや」と言ったのも、単にこの問題から逃げたのではなく、これは冷厳なる事実であり、これ以上は言い得ないからだと思います。
自殺についても同様に、その結果が如何なるものかは分かりません。
仏教では自殺は悪ではないとしながらも、迷いであるとして真実の道を説いています。
理屈はともかくとして、最終的にはその人が納得した道を選ぶべきでしょう。
ただ私としては、自殺以外の道を模索していただきたいというのが正直なところです。
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magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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