愛について

愛についてと言っても、心ときめく、乙女チックな話ではなく、人生論的な愛についてということで、少々、爺むさい話ではあります。
さて、愛と言う言葉ほど人生で重要な位地を占めるものはないでしょう。
それは幸福の象徴であり、また不幸に陥れる元凶でもあります。
人は男女の愛によって生まれ、両親の愛情に包まれて育ち、時に身近な人からの愛に触れ、自らも郷土や国を愛するようになり、やがて異性に対して愛が芽生え、結婚に至るまで、一貫して愛が主要なテーマとなっています。
小説や映画でも、愛は欠くことのできない題材です。
それは、天ぷら屋のエビであり、すし屋のマグロであり、あるいは焼肉屋の牛肉のように無くてはならないメニューとなっています。(食べもの屋の例えばかりで申し訳ないです)

ところで、愛と一口で言いましても、愛にも色々ありまして、先に挙げましたように、異性に対する愛から宗教的な愛まで様々です。
日本語では、その微妙な違いについて、色々な文字と組み合わせて表現しているようです。
たとえば、男女の愛は性愛であり、国に対する愛はもちろん愛国、宗教的な愛は博愛とか慈愛とか言っています。
古代ギリシャでは愛を四種類に分けていたそうで、性愛のことは御存知のように「エロス」、家族愛のことは「ストルゲー」、隣人愛のことは「フィリア」、そして真の愛は「アガペー」と言うのだそうです。
キリスト教で言う愛は「フィリア」と「アガペー」を指すということで、前の二つは用いないということです。

さて、ではなぜキリスト教では「フィリア」と「アガペー」以外の愛を用いないのでしょうか。
よく考えると、「フィリア」「アガペー」とそれ以外の愛とはどうも性質が違うようです。
むしろ「フィリア」「アガペー」は特殊な愛ではないでしょうか。
一般的に我々が愛と言えば、それは性愛を意味します。
続いて、家族愛、さらに郷土愛とか国を愛するとかがあって、取って付けたような愛社精神などと言うのもあります。
いづれにしても、その根底にあるのは自愛です。
露骨な言い方をすれば、自分が幸福になるために必要だからです。

そもそも、愛とはそのほとんどが、動物的本能に根ざしています。
心ときめく恋愛も、ロマンチックな恋物語も、種族保存による生殖行為にすぎないのです。
と言うと身もふたもないようですが、こと性愛ということに関しては、それは事実のようです。
若い男女の恋のささやきも、発情した猫の鳴き声も、傍で聞いているとうるさくて勘弁してくれと言いたくなります。

性愛に限らず、一見美しいと思われている親子の情愛なども、動物的本能の延長でしかありません。
なぜなら、他の動物と共通しているからです。
むしろ、近頃の人間様よりも、子を守ろうとする意志は、動物の方が強いかも知れません。
特に母親の方が顕著であり、父親の方はどちらかと言えば冷静です。
母親は自分が産んだ子であるとすぐ分かりますが、父親の方はと言えば、自分の種かどうか定かではないという事情があります。

それはともかくとして、ここで注意すべきことは、親子の情愛といっても、あくまで親が子に対する愛であって、その逆ではないということです。
「親の思うほど子は思わぬ」ということわざがありますが、確かに親が子を愛するのは本能ですが、子が親を愛するの本能ではありません。
もちろん、親孝行な子はたくさんいますが、それは本能からではなく、あくまで人間的な情愛によるものです。

ところで、この本能とはもちろん自然の意志ということですが、この自然にとって重要なことは種族保存ということであって、それ以外のことはどうでもよいわけです。
親の役目は子を産み、育てることであり、子が成人した暁にはもう用はないというわけで、自然はごくろうさんでもなく、気力や体力を奪い去ります。
そういう意味では、自然はあくまで冷徹であり、情愛の入り込む余地などないのです。
ですから、自然は神が創り、その意志は神の意志であるというのは、分の悪い話ということになります。
事実、キリスト教で言う愛(アカベー)は動物的本能を否定した愛となっています。

話が横道に逸れますが、キリスト教では世界を創造したのは神であるとしています。
この世界を神が創ったのであれば、当然悪をも造ったということになります。
では、なぜ悪を造ったのかという議論が、歴史上繰り返されているようです。
悪と対立させることによって、善を際立たせ、人を善に導くためであるとする意見もあるでしょうが、必ずしも歯切れがよいとはいえません。
私はむしろ矛盾は矛盾のままで構わないのであって、つじつまを合わせる必要はないという考えです。
本来、神という概念は人間の認識を超越した存在であって、考えることも、言い表すことも出来ません。
しかし、それでは一般の人に知らしめることが出来ないので、神を人間に模し、世界の創造者として、父母が我が子を愛するように人間を愛し、慈しんで下さるという物語が生まれたのでしょう。

神を定義することは出来ません。
厳密に言えば、「神」と言った途端に神ではなくなってしまうほど厄介な代物?なのです。
ですから、我々は神を象徴的に表現する以外にはないのです。
神は世界の創造者であり、人間の救済者でもあり、また永遠の存在であると言っても何ら差しつかえはありません。
また同様に、神は真理であり、我々の本質であり、根源であると言っても差しつかえないでしょう。
要するに、神は色々な表現が可能であり、そのそれぞれに整合性を求める必要はないということです。

さて、キリスト教で言う真の愛とは「アガペー」ということですが、では真の愛とは一体何のことでしょうか。
それはもちろん、神の愛ということでしょう。
では、今まで述べてきたような愛は何なんでしょうか。
それは動物的本能による愛ということになるでしょう。
性愛はもちろんのこと、自愛、家族愛、愛国心なども、動物的本能の延長でしかありません。
それでは、神の愛とはどんな愛なのでしょうか。
答えて言うならば、それは、汝の敵を愛する愛です。
「えっ!汝の敵を愛する愛、そんな愛など私は知らん」という声が聞こえてきそうです。
確かに、キリスト教では、真の愛を明確にするために、極端な表現が用いられているようです。
しかし、いづれにしても、キリスト教で説く愛は、一般的な愛の概念とは全く異質なものであることは間違いないでしょう。
しかも、この愛無くして天国へ入ることが出来ないとするならば、確かに、狭き門ではあります。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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