究極の真理としての愛

真理といえば、論理としての真理を思い浮かべますが、人生論としての真理は愛ということになります。
何故なら、愛によって全ての人生問題が解消されるからです。
また、論理としての真理とは、論理では真理に到達できないということを知ることです。
もちろん、真理と言う言葉を心の平安を得られる境地と定義するならば、という話ですが。

さて、愛が究極の真理であることは、実は皆知っていることあり、納得しているところです。
ただし、このブログで何度も指摘しているように、動物的本能に基づく愛ではなく、いわゆるキリスト教のアガペーであり、仏教でいえば慈悲です。
ちなみに仏教でいう愛は渇愛を意味し、煩悩を生む要因とされています。

ではこの愛(アガペー)によって人生問題が解決するとはどういうことでしょうか。
人生問題において最も深刻かつ重大な問題は死です。
私自身齢六十半ばに達する現在に於いても、未だ死の恐怖心から完全に脱却できないでいるのです。
私自身から類推して思うに、おそらく死の恐怖心から完全に脱却した人は古今東西誰一人としていないであろうことは想像に難くないのです。
考えてみれば当然の話で、死の恐怖心がなければ、人間が現在のように地球にあふれることもなかったでしょう。
皆人生が楽しいから生きているわけではなく、ただ単に死ぬのが怖いだけの話かもしれません。
しかし、死の恐怖心も生命力がある間だけのことであり、生命力が衰え、死に移行する頃には、死の恐怖心は完全に去り、安らかな状態で死に向かうと思われます。
それはちょうど肉体の苦痛が消滅するのと同じです。
他の動物においても事情は全く同じであり、死期を悟った動物は自らすすんで静かな場所にひきこもり、死を迎える準備をするのです。
そこには何ら悲惨な状況はありえず、自然の営みの一つにすぎません。

さて問題は、生存中での死の恐怖心にどう対処すべきかということです。
ただ、一口に死の恐怖心といっても、そう単純なものでもありません。
(死の問題については、以前に書いた「死について」もよかったら参考にして下さい)
いづれにしても、生存中に関わる全ての物事が、死と共に消滅するであろうことは間違いありません。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の我も、当然消滅することになります。
従って、どのような論理や理屈も、死を前にしては意味を成しません。
私がここで、くだくだと書いていることなどは、むろん屁のようなものです。

とは言え何らかの心構えは必要でしょう。
人間は他の動物とは違って、自然体では死に移行出来ません。
人間には良きも悪しきも思考能力があり、死の恐怖心を必要以上に増大してしまいます。
妄想は妄想を呼び、ついには精神破綻に至ることもめずらしくありません。
人間が生きていく上で、最も重要な指針となるべき理性や知性が、あてにならないとなると、いったい何を拠り所とすればよいのでしょうか。
それはまた、逆にどのような状態のときに、生死の不安が消えるのか、ということでもあります。

さて、今回の主題は「究極の真理としての愛」ということですが、我々は愛によって救われることを知っています。
愛によって自他の区別は消滅し、全てのものと一体になります。
それは究極の真理とひとつになることを意味します。
仏教的にいえば「万法一如」を体得した境地といえるでしょう。
現象界においては、万物が対立する差別相対の世界であるが、その根底においては全てが一つです。
譬えば、現象界を海の波だとすれば、その本体は水面下であり、波頭渦巻く水上も、ひとたび水中に入れば静かな一体感に包まれた世界となります。

いづれにしても、愛が重要であることについては異論はないでしょう。
人は愛によって心の安らぎを得るかもしれません。
巷でも愛という言葉があふれています。
しかし、世間で手軽に使われているほど、真の愛をもつことは簡単ではありません。
たとえば、このブログでも度々取り上げているキリスト教の「汝の敵を愛せ」という境地です。
この愛は動物的本能に基づくものではなく、むしろそれに逆行するものです。
ですから、この愛については欲求も衝動もなく、逆にそれを否定したところにあります。
人間は徹頭徹尾、動物的、肉体的な存在ですから、その欲求も全てそれに基づいています。
それを全て根こそぎ捨て去らない限り、真の愛は出てこないということになります。
しかし考えてみれば、いずれ死によって全てが失われる訳ですから、それにしがみついていてもしょうがないわけです。
それに、死によって失われない価値があるとするならば、それは肉体的な欲望とは無縁のものでなくてはなりません。

人間は現象界においては、個々別々の有限な存在にすぎませんが、見方を変えれば全て一体であり、その本源を一にしているということが愛の背景にあるのは確かです。
キリスト教では「神は愛である」と表現されますが、キリスト教の偉大さは正にこの点にあるといえるでしょう。
人間が神の境地に至って初めて、あらゆる不安や悩みから解放されるのかもしれません。
ただ、ひるがえって我が身をかえりみれば、いまだ道遠しというのが正直なところです。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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