ハイデガーを考える

さて、ハイデガーですが、私はもともとハイデガーに興味があったわけではなく、たまたま本屋で解説書を見つけたので読んでみようと思ったのにすぎません。
しかし、二十世紀最大の哲学者といわれ、多くの知識人に影響をおよぼし、また難解といわれるその思想とはいかなるものか、そして、その主著である「存在と時間」にはどんなことが書かれているのか、知りたいと思ったのも事実です。

ところで、ハイデガーに限らず、西洋哲学の著作といわれるものは、西洋哲学上の他の論との関係が多く、その著作自体で論として成りたっていることは極めてまれです。
ハイデガーの思想といわれるものも、そのほとんどは、過去の哲学者の論説の批判や継承、あるいは改編といったことで成り立っているようです。

ハイデガー自身の著作として、作品の名に値するのは「存在と時間」のみであり、他は全て論文か講義か講演だといわれています。
しかも、その「存在と時間」も未完で終わっています。

では、ハイデガーの思想とは何なのか。
ハイデガーに批判的な人は、「その著作など、無意味な言葉の積み重ねにすぎない」といっているそうですが、それにしても、「存在と時間」はあまりにも有名ですし、その影響も大きいと聞いています。
それが一体、何処から来ているのか、そしてなぜこれほど有名なのか、疑問に思うのは私だけではないでしょう。
また、「存在と時間」が作者の真意とかけはなれた形で、一般に受け止められているということも不思議な感じがします。

さて、ハイデガーの思想は、西洋哲学上の諸問題をあつかっており、その意味を完全に理解しようとするならば、関連のある哲学者の説をすべて把握しておかなければなりません。
しかも、西洋という長い伝統の中で培われてきた文化を背景としていますので、真の意味での考え方を理解するのは、困難といえましょう。
ハイデガーの哲学が難解といわれるのは、そういったことも一因になっていると思われます。

では、その「存在と時間」に何が書かれているのか、私なりに理解した範囲でまとめてみようと思います。

まず、この本のねらいは、「存在一般の意味の究明」ということで、要するに、存在とは何か、を問うことです。
存在への問い、ということは、すでにギリシャ哲学以来つづけられていますが、それを新たに問い直そうというわけです。

本の構成としては、上巻と下巻に分かれ、上巻では現存在(人間)の分析を、下巻では存在一般の意味の究明と、西洋の存在論の歴史をふりかえるという内容になっています。

そして、この本のねらいである存在一般の意味の究明には、まず、それを問う現存在(人間)の分析が必要であるとして、その作業を上巻に当てています。

しかし、実際に書かれたのは上巻だけで、下巻は書かれていないのです。
下巻は目録としてあるのみです。
ですから、この主著は未完の本ということになります。

結局、この中途半端な書物が、しかも誤解されて、有名になったということです。
この本は、上巻だけを読んだ場合、実存主義の書と受け止められ兼ねない、ということで、たまたま時代の要請もあってブレークしたものと思われます。

それはさておくとして、では、存在とは何かという問いですが、ハイデガーは「存在は現存在(人間)が了解するときにのみある」という一見当たり前のことをいっています。
そして、ハイデガーはここで色々な言葉を作っています。
人間を現存在に、存在了解を存在企投に、世界開在性を世界内存在に、あるいは超越、等々。
そして、新しく作った概念で何を言おうとしているのか、簡単にいえば次のようになると思います。
人間は他の動物と違って、記憶や予期の働きによって、過去、現在、未来といった次元で世界を考えることができるようになり、それに適応した生き方が可能になる。
そして、人間が人間になるということは、過去、現在、未来という時間の場が開かれるということであり、それが、「現存在の存在は時間性である」という意味である、としています。

要するに、人間はその思考能力によって、他の動物と違った生き方が可能になるということだと思いますが、ただ、私がここで疑問に感ずるのは、なぜ、それが時間なのかということです。
もちろん、時間性ということもあるでしょうが、人間の思考能力はそれだけに立脚しているわけではないと思います。
たとえば、空間性ということもあり得るわけです。
時間とともに空間的な広い視野のなかで物事をとらえることも出来ます。
人間の思考を構成する要因としては、時間と空間しかないわけですから、存在は時間性であるといっても間違いではないでしょうが、ことさらそれを言い立てるのは、あまり意味がないような気がしますが。

さて、次にハイデガーはプラトンとアリストテレス以降の哲学と、それより前のヘラクレイトスやパルメニデスによって代表される思索とを分けています。
そして、後者は万物をピュシス(自然)と見、存在者の全体を自ずから発現し生成してきたものと見ていたのに対し、前者は存在者を本質存在と事実存在に分け、本質存在を優位とする見方によって、自然を制作のための単なる材料におとしめている、としています。
そしてさらに、本質存在と事実存在の概念は人間の製作行為に定位して形成されたと言っています。
ここで、制作作用という言葉がさかんに出てきますが、これは、いままでなかったものを眼前に出現させる働きという意味だそうです。
そして、人間の製作行為というのは、イデアを観取し、それをこちらに招き寄せ、眼前の材料のうちに据えるということです。
したがって、プラトン、アリストテレス以降の存在という概念は現前性であり、被制作性であるということになります。

結局、何が言いたいのかといえば、アリストテレス以来の伝統的存在概念は、非本来的な時間性を場としておこなわれる存在了解に由来するため、自然は制作のための単なる材料あるいは質料と見られるようになった。
つまり、近代の物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化はここに端を発している。
そして、今明らかにゆきづまりにきている人間中心主義的文化の転覆を図り、以前の本来的な時間性にもづく概念、すなわち、自然を生きて生成するものと見る自然観を復権する。
ということのようです。

しかし、この試みは結局挫折するわけですが、なぜうまくいかなかったのか、それは、現存在(人間)が存在を規定するのではなく、存在という視点の設定は人間の力をこえた出来事である。
したがって、人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をにぎっておこなうというのは自己撞着である。
と気づいたから、ということらしい。

大言壮語の割には、なんともお粗末な結末ですが、もっとも、著者が放棄した書をまともに論議するというのもおかしな話ですが。

さて、次に私はハイデガーの哲学の背景となっている、ニーチェやギリシャ哲学を見て行きたいと思っています。

なお、この記事は木田元著ハイデガーの思想を参考にさせていただきました。

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ハイデガーの思想 4/4~現存在の時間化

存在了解にせよ世界内存在にせよ、現存在において現在・過去・未来といった時間の場(ホリツオント)が開かれることによってはじめて可能になる。つまり、現存在において存在という視点の設定が行われるのも生物学的環境を超越して世界が構成され、現存在がそれに開かれるのも、現存在がおのれを時間として展開すること、おのれを時間化することによってはじめて可能になるのである。というよりも、もともと現存在が現存在と...

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私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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