ショーペンハウエル「知性について」(3)

前回につづいて、ショーペンハウエルの「知性について」を考えています。
今回で三回目となり、「自殺について」を入れれば五回目となります。
長々と同じような問題を考えているわけですが、なぜ私がこの問題にこだわっているのかといえば、人生問題の究極はこの一点にあり、その他の雑多な問題などは枝葉末節にすぎないからです。

では何がそんなに問題なのかといえば、我々の生存の基盤になるからです。
我々の生存が夢まぼろしに終わるのか、はたまた確固たる基盤にあるものなのか、その瀬戸際の問題だからです。
我々の生存がいかにあやふやかは子供にさえ分かります。
子供は分からないことでも直視するが、大人は分からないことはごまかそうとします。
そのくせ、自分の死を前にして、気が動転し錯乱状態に陥るというお粗末な結末をむかえることになります。

とはいえ、大人がこの問題を見て見ぬふりをするのも分からない訳ではありません。
いったんこの問題に真剣に関わると、生活が停止してしまうからです。
全ての生活の意味が失われてしまうほどの重大事なのです。
しかも、ほとんど解決不可能と思えます。
ショウペンハウエルもこの点については、「読書について」と題する訳書のなかでふれています。
「我々の存在、この曖昧な、苦悩に満ちた存在、この夢のような存在は重要なさしせまった問題で、一度この問題に目覚めると、ほかの問題などはその影におおいかくされてしまうほどである」
「ところが、ほとんどの人がこの問題に対する意識がなく、それどころかこの問題自体に気付いている様子もなく、目先の事ばかりに気を取られながら、無為な日々を送っている」とのことです。

さて、我々は知性によって、生きています。
少なくともそう思っています。
日々の生活を送っている限り、知性に矛盾は生じません。
それどころか、知性は人間にとって、かけがえのない能力です。
現代の文明は知性の賜物です。
現代の科学は人間の知性の粋であり、あらゆる不可能を可能にする現代の魔法の杖です。
だれがこの知性に疑いをさしはさむ人がいるでしょうか。
ところがこの知性、その威力を発揮するのは、こと現象界に限られているのです。
現象の本質、物自体にはその威力もとどかないのです。

なぜ知性には物自体が見えないのか、という問題にショーペンハウエルは次のような指摘をしています。
「物自体とは地球の内部のようなものであり、我々が知り得るのは地球の表面のみである」
また、「本来知性は意志に奉仕するためにあるのであり、従って、動物的存在の維持に必要な、個々の現象の相対的関係のみの認識に限られている」
さらに、「時間、空間、あるいは根拠率といった概念も、現象のみにあてはまるのであり、物自体にはその意味も失われる」としています。
また、訳者あとがきに「認識する知性は世界の現象のみを捉えるそれ自身現象的なものにすぎない」という解説もあります。
しかしこの言葉ほど事態を端的に言い表してものはないでしょう。
それは第三篇「知性について」で出てくるのですが「我々の認識は我々の眼のように外部だけを見て、自己の内面へ向かわないものである云々」という部分です。
「我々の眼のように」ということは、我々の認識は認識する当のものであり、対象を認識することが出来ても、認識するもの自体は認識できないという意味です。

ところで、この「眼のように」という比喩は、この状況を説明する言葉として広く用いられています。
たとえば、日本の時宗の開祖一遍上人の語録にも出てきます。
ショーペンハウエルと一遍上人とは縁もゆかりもないでしょうが、もし二人を結びつけるものがあるとすれば、それは仏教かもしれません。
いづれにしても、この部分が人生問題の核心である以上、同じような比喩が用いられても不思議ではないでしょう。
興味深いのは、「鏡をさしかけることによって己の眼を見ることが出来る」と両人とも言っていることです。
むろん、この眼とは世界の本質、即ち物自体のことですが、一遍上人はこれを「自らの本性」といい、ショーペンハウエルは「意志」としています。
ただ、一遍上人の「自らの本性」と、ショーペンハウエルの「意志」は全く別のことを指している点に注意する必要があるでしょう。
一遍上人の「自らの本性」とは「万法一心」からきているのであり、華厳経にも「三界虚妄、但是一心作」とあります。
要するに、世界の本質は自分の心の中にあるということです。
ですから、「自らの本性」とは真如そのものを指しているともいえます。
一方、ショーペンハウエルの方は、むろん盲目の意志ということになります。

さて、一遍はこの箇所で注目すべきことを言っています。
それは「木に火の本性があるといっても、その火がその木を焼くことができない」という一節です。
ここで火とは、万法一心の一心を指しているのであり、真如、あるいはカントの物自体と言い換えてもよいでしょう。
また、木とは煩悩のことであり、我々の苦悩に満ちた精神世界を指しています。
ですから「その火がその木を焼くことができない」とは、本来我々の中にある仏性(真如)は我々の煩悩を消すことができないという意味です。
続いて「別の火をもって木を焼けば、たちまち焼ける」とあります。
これは、「その身に仏性の火があるといっても、その火が自分で煩悩の薪を焼き滅ぼすことはない。名号の知恵の火の力によって焼き滅ぼすことができるのである」ということです。
ここで知恵の火の力とは、一遍上人は念仏宗ですので、当然、名号(念仏)ということになります。

では、何が注目すべきなのかといえば、真理そのものは我々の悩みを解決してはくれないということです。
真理とは、相対差別を離れた絶対的なものであり、それ自体純粋、無垢、清浄なる真実在ですので、当然煩悩や迷いはありません。
迷いや悩みがあるのは我々の意識の方ですから、もしそれを打ち消すことができるとするならば、それは意識、すなわち知性によって以外にはないわけです。

さて、この辺りに人生の謎を解く鍵があるような気がしますが、本題とかけ離れてしまいますので今回はここまでにします。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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