コメントについて

日々の生活に追われて、このブログもなかなか更新出来ませんが、それでも月一回ぐらいはなんとか書いていこうと思っています。
それというのも、このブログでは一か月以上更新しないと、広告が前面に入ってしまうというペナルティが課せられているからです。
むろん、それは当然のことであって、私は趣味でやっているのですが、このブログを提供している側は趣味ではないでしょうから無料奉仕というわけにはいきません。
このブログを利用している以上、広告を見るのは義務とも言えます。
さて、今、「老荘と仏教」という題で書き始めていますが、まだ記事がまとまりませんので、今回は前回についたコメントついて書くことで、お茶をにごすことにします。

前回の記事にコメントが何件か入っていましたが、その中で科学と宗教に関する意見がありました。
この方は宗教に対してかなり否定的な考え方をもっていられるようですが、確かにもっともな部分はあります。
ただ、科学と宗教を同列に考えているのが気になります。
たとえば、陸上競技と水泳のように、陸上では万能でも水に入れば金づちという人もいるでしょう。
科学は人生上の問題には関与していません。
死を目前にした人に何らこころのやすらぎを与えてはくれません。
科学と宗教を比較すること自体が間違っているのです。
また、人生の根本問題に関して、不可知論で済ませるといっていますが、簡単に不可知論で済ませることができるでしょうか。
そんな簡単な問題なら自殺する人などいないでしょう。
しかし、切羽詰まった人が胡散臭い宗教に引き込まれてしまうのも事実です。
そうならないためにも我々は理性によって、正しい道を模索する必要があると思います。
ちなみに、私は人に宗教を勧めているわけではなく、私自身も特定の宗教を信じているわけではありません。

次に、前回の話では曖昧で誤解を生むような表現があったと思いますので少々説明しておきます。
先ほどの話でもあったように、この世界、あるいは人生上の問題で不可知な部分があることはまちがいないでしょう。
問題はそれを如何に受け入れるかです。
不可知として簡単に割り切る人もいるでしょうが、人生の根幹に関わる問題ですので、これを避けて通るわけにはいきません。
では不可知な部分がなぜ生じるかというと、実は我々の認識の方に問題があるのです。
このブログで何度も指摘している通り、我々の意識に登ってくる段階で現象は相対化され、固定された概念となります。
従って、真実そのものではなく、その影にすぎません。
真実そのものは、我々の認識の届かないところにあります。
ですから理性が到達できるのはここまでであって、この先についてはその人の考え方次第ということになるでしょう。
宗教を信じようと、科学を信じようと、何も信じまいとその人の自由です。
人の信じることについて、とやかく言うことはできません。
それに、百人いれば百通りの考え方があるわけで、人それぞれ考え方も違います。
重要なことは、その人自身納得できる道を見出すことではないでしょうか。 

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お疲れ様です

日々色々忙しいし、ブログの更新も大変でしょうね・・・
私は楽しみにしてますが、気楽にマイペースでやっていってくださいね
ちなみに、不可知論というのはあまり大した問題ではないような個人的には考えております。
まぁ、考えても仕方ないことを考えるのは時間の無駄で現実の生活のことをもっとよく考えるべきだということは確かにその通りかもしれません。人生の意味など考えていたら悲観的になって精神病みそうですから・・・それも覚悟の上で私は探求してますが・・・(いや、やっぱり考えない方が良いのかな・・・)

前回で宗教批判のコメントした者です。記事にしてくれてありがとうございます。前回のコメントは感情的になりました。申し訳ございません。思い返せばそれは主に「救われる道」という記事の最後部分に触発されたと思います。

"実際、我々は不安や恐怖心から神や仏に救いを求めるのであり、そしてそれ以外に救われる道があるとは思われません。"

この文を自分には宗教勧誘の脅し文句にしか聞こえなかったのです。

宗教は抽象的過ぎて何にでも解釈できるので守備範囲が大きいですが、本質的な解決策にはならないと思います。宗教が本当に人間の幸福を中心に据えるのなら、中世や今の中東など信仰が盛んなところはとっくに地上楽園に化しているはずです。
自分の中ではリチャード・ドーキンス(多分宗教批判の第一人者)の利己的遺伝子理論の影響を受けており、宗教を一つのミームと見なしています。宗教の生存機械に適したソフトである事は評価します、でも人生問題の解決を宗教に頼るの門違いだと思っています。それより快楽装置の方が永遠の幸福をもたらす可能性があると思っており、たとえそれが同時に死を意味してもです。

宗教について

宗教は盲信すべきではないでしょうね
そして、人類の科学ですら盲信すべきでしょうね
後から否定される科学的事実はあると思いますから・・・
エーテルがどうのとか、糖尿病の脂質制限がどうのとか、今になってみれば否定されることばかりです。
というか、科学はいくつもの仮説から成り立ってます。ノーベル賞を受賞した統合失調症のロボトミー手術も今では完全に否定されてます・・・
常に常識に疑問を持ちつつ考え続けるか、あるいは考えても仕方ないから適当に生きるか、いずれにしろ、追い求めたい人は、常に「何故?」と問いながら考えればいいだけのような気がします・・・

訂正

すみません
『宗教は盲信すべきではないでしょうね
そして、人類の科学ですら盲信すべきでしょうね 』

『宗教は盲信すべきではないでしょうね
そして、人類の科学ですら盲信すべきではないでしょうね 』
でした

実際科学とは応用的な宗教とも言えるでしょうか。他の可能性を見捨て、物質主義や自然の斉一性などの主観を前提とする方法論が科学だと感じています。前提がある分守備範囲は哲学や宗教より狭く、実学であるため、理論は常に新しく組み立てられる必要があるように感じています。自分は前提というものが嫌いで科学を嫌っておりますが、ただそれ以上に宗教の胡散臭さが嫌いなだけです。

宗教を一つのゲーム設定を受け入れて楽しむ、みたいな事と見るなら、宗教も悪くないかもしれません。結局人間は主観でしか生きられませんので。
プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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