老荘と仏教(3) 大道廃れて、仁義あり

前回は老子の「学を絶てば憂いなし」という言葉を採り上げましたが、老子の言葉自体が難解で、学どころか解説なくして読み取ることが出来ません。
今手元に金谷治氏の適切な解説書がありますので、これを参考しながら考えています。
さて、「学を絶てば憂いなし」とある章の前に「大道廃れて、仁義あり」という文句があります。
その後続けて「知恵出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家昏乱して、貞臣有り。」となります。
何のことかといえば、儒教が掲げるこれらの道義は、それが失われているからこそ、ことさらそれを言っているのに過ぎないということだそうです。
確かに、仁義、孝慈、忠臣などという徳目はそれが無いからこそ言う必要があるのかもしれません。
ここで思い出すのは、今日本に「敬老の日」なるものがあります。
私もそろそろ老人の部類に入るのですが、もちろん私を敬ってくれる人など誰一人としていません。
私に限らず、今の日本で老人を敬う若い人などいるのでしょうか。
それが無いからこそ、ことさら敬老の日なるもの作ったのでしょう。
今の若い人から見れば、老人など産業廃棄物位にしか思っていないのではないでしょうか。
こんな風潮をつくったのは誰かといえば、もちろん老人です。
なぜなら、現代社会をつくってきたのは、元は若かった今の老人だからです。
若い人は先輩を真似て育っていきますので、今の若い人たちの姿は、他ならぬ自分の姿であるというわけです。
ではなぜ老人が尊敬されなくなったのでしょうか。
答えは簡単で、尊敬されるようなことをしていないからでしょう。
しかも、若い人が「敬老の日」をつくったのならいざ知らず、老人がつくったのだとすれば、敬老どころか厚顔無恥というレッテルが貼られることになります。

さて、現代社会は老子の理想とは全く逆の方向にあるといえます。
では老子の考え方とはいかなるものでしょうか。
次にそれを見ていきたいと思います。
老子の思想を最も端的に言い表しているのは、やはり開巻第一にあるこの言葉であろうと思います。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の初め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。
この両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。」
私も若い頃から、老子を読むたびに、この言葉が目に入りますが(最初に出てくるので)、意味がいまいちはっきりしませんでした。
むろん、解説が付いていますので、全く分からないということではありませんが、その真意がつかめなかったのです。

「道の道とすべきは、~常の名に非ず。」までは儒家が掲げる道、名の批判ということだそうです。
要するに、真実の道は言葉では言い表せないということでしょう。
次の「名無きは天地の初め、名有るは万物の母。」とは、字ずらだけ眺めてみても何の事だか分かりません。
そこで解説を見ると、「無名が万物生成の始原であり、有名が万物の種別が生まれる母胎である」ということらしい。
でも、これだけではまだはっきりしません。
私はこれを自分なりに解釈して、「本来、宇宙万物には名は無い。名が無い限り、全ては一体である。人間が名を付けることによって、万物が分化した。」としました。
そして次の「故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。」は当然前の言葉を受けているわけですから、妙とは名の無い一体的な世界を指しているのであり、徼(きょう)とは名によって分化され、認識された世界ということになります。
そして重要なのは、無欲であればその妙を観ることができるが、有欲であれば徼(きょう)、即ち末端の現象が観えるだけであるとしていることです。
要するに、欲の有る無しによって世界の観方が変わってくるという点です。
ということは、この言葉は単に認識論的にではなく、実践を通して得られるこころの境地を言っているわけです。
なお、徼(きょう)という字は明白という意味だそうですが、私は我々が認識した明らかな世界と採りました。
最後の「この両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。」とは、この両者、即ち妙の世界と徼の世界は、もともと同じものであるが、観方によって名が変わってくるということ。
そして、両者共にその本源は我々の認識を超えているが、その超えた世界から全ての現象が現われてくるということです。

さて、この老子第一章の言葉だけに限っていえば、仏教の中観派の考えに近いのではないでしょうか。
この言葉がそっくり仏教経典に在ったとしても不思議ではありませんし、むしろ仏教の心髄を簡明に言い表しているとさえ言えなくもないのです。
言葉の虚構性を強調している龍樹と同じく、老子も言葉や概念を信用していません。
また、ここでいう妙は、そのまま空、真如、真諦などと相通ずるところがあると思います。
さらに、老子のいう無欲は仏教の中道と近いといえるでしょう。

というわけで、次回はさらに老子の核心に迫っていきたいと思います。

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無欲について

老子も、釈迦も、欲がすべて苦の元凶だとおっしゃりたいのでしょうが、私は逆だと思います。人生は人によって程度の差はあれ必ず苦しみがあり、苦しみがあるから願望(欲)が出てくるのだと思ってます。欲は、さらなる幸福を目指そうとする強欲のことではないと思います。ささやかでいいから平穏で不安なく暮らせる幸せを願い求める弱欲とでもいえる欲こそ、多くの人の願望だと思ってます・・・欲を消せば苦しみはなくなる、という聞こえの良い説教は、大衆を上辺で騙せても、全くの詭弁・屁理屈だと思うのですが・・・すみません、傲慢な物言いで。御批判いただければ幸いです・・・

Re: 無欲について

まことにその通りですが、ちょっと誤解されているようなので、一言付け加えてさせて下さい。
釈迦も老子も、あなたが言う弱欲を勧めているのであって、欲を無くせとは言っていません。
欲という言葉自体が曖昧ですので、いろいろな意味にとれるでしょうが、生活上の必要な欲求や、ささやかな願望などは対象外でしょう。
また釈迦や老子が人を騙すことなどありえないし、もちろん私もです。

「欲を無くせとは言っていません。」そうだったんですね。勘違いしてました。すべての欲を捨て、無欲無欲の精神が必要だと釈迦は言ってたと勘違いしてました。何しろ、仏教では蚊すら殺さないようにしてるみたいだから、滅私無欲が解脱に必要だと思ってました・・・
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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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