老荘と仏教(5) 老子の道

前回では老子の万物復帰の思想について触れました。
生成変化する万物も、いづれその根源に帰るということですが、老子はその根源を道と名付け、それを知ることが明であり、それを直視することで、迷妄より脱するということでした。

さて、老子は世界の根源を道としているわけですが、むろん道とは仮の名で本来指し示すことのできない、従って名付けようがないのですが、あえて言葉で言い表したのが道ということです。
老子はこのことについて再三述べています。
前回採り上げた第十四章の「これを視れども見えず」の中でも語られています。
前回では飛ばしましたが、「これを視れども見えず。~是を惚恍と謂う。」までの部分です。
この中で、道は見ることも、聞くことも、捕えることもできない、すがたのないすがたであり、かたちのないかたちであり、おぼろげなものである、といいます。

また第二十一章「孔徳の容」でも同じようなことが語られています。
道とは、おぼろげでとらえどころがないが、そのぼんやりとしたなかに何かの存在がある。
それは霊妙な精気であり、純粋でたしかなものである。
そして万物の始原を統べ括っている。

さらに第二十五章にもあります。
それは天地より以前に生まれ、静寂で漠然としているが、独立して不変であり、周行してとどまらず、この世界の母である。

さて、老子はこのように象徴的な言葉で道を表現しているわけですが、むろんこれは論証できるものではありません。
論理を超えた世界の話であり、個々人の考え方に委ねられている問題です。
これを採るも採らざるもその人の自由です。
そもそも人生論上の問題は理屈の枠外であり、心の問題ですので、自分の心に適う教えをもって最上とすべきでしょう。
どんなに緻密な論理でも、こころに平安を齎さなければなんの価値もないからです。
逆にどんなに荒唐無稽と思える教えでも、平安を齎すものであれば、その人にとってはそれが真実の教えということになるでしょう。(むろん、他の人に迷惑をかけるような教えは論外ですが。)

みることも聞くことも捉えることも出来ない道は、確かに想像の産物に過ぎないかもしれません。
しかし我々は時間的にも空間的にも無限の中に在って、何ら確たる基盤のない陽炎(かげろう)のような存在であることも事実です。
「世界に始めがあるのか、世界はなぜこのように在るのか、人間は何処から来て何処へ行くのか」等々、これらの問題に解答はありません。
ただし、解答がないというのは、あくまで論理的にはないということであって、論理を超えた世界には紛れもなく解答があるのです。
老子の教えもその一つといえるでしょう。
老子の教えも、もちろん論理的とはいえません。
文章も詩的な表現であったり、警句あるいは格言のようでもあります。
その内容ですら、曖昧模糊としており、意味不明な部分もあります。
論理的でないとするなら、これ程論理的でないものはないでしょう。

さて、ここで論理、論理とやたら論理という言葉が出てきますが、そもそも論理的とは何でしょう。
辞書で見てみると、「きちんと筋道を立てて考えるさま」などというあまり論理的とは思えない解説があります。
それはともかく、一般的に用いられる意味と哲学や数学で使う場合とでは当然違ってくるでしょう。
特に数学では黒白のはっきりした世界であり、必ず結果が出ます。
それもそのはず、最初から答えが出るように設定されているのですから当然です。
色々な前提条件や約束事が決まっていて、その中での論理といえるでしょう。

曖昧さを許さないという点では、今使っているこのコンピューターも同様です。
コンピューターは御存知のようにプログラム言語で動きます。
言語といっても、我々が普段使っている言葉ほど多いわけではなく、簡単な命令文がほとんどです。
電気信号を我々の理解できる言語に置き換えただけのことです。
ですから、プログラム言語を学ぶということは、その約束事を覚えるということです。
プログラムを組む上での注意点として、無限ループに陥らないということがあります。
無限ループとはプログラムが終了せずに同じ処理が続いてしまうことですが、条件分岐や繰り返し処理の記述ミスによって起こります。
むろんプログラムは破綻します。

私はここで何を言いたいのかというと、正確無比なコンピュータも、ある限られた条件の中でのみ有効ということです。
西欧哲学でも、数学のように正確な論理によって、世界を把握しようという試みがありましたが、結局失敗しています。
現象世界には約束事も前提条件もないからです。
時間的にも空間的にも、全てが無限無窮であり、正確な論理で捉えることなどできません。
コンピュータのプログラムが破綻するように、人間の論理も破綻するというわけです。
ですから、人間の論理もある範囲内でのみ有効ということであり、その先は人間の知性では届かない、不可思議で神秘な世界ということになります。
我々はこの神秘なる世界を受け入れるべきであり、でなければ永遠に迷いの中に沈むことになるでしょう。
とは言っても、私は狂信的な神秘主義者の立場はとりたくありません。
あくまで理性に基づいて、理性の限界を認め、理性(知性)を超えた部分を受け入れるということです。
人間から理性を取ったら、その存在価値が無いように思えます。

「これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知るなり」とは、老子の批判する儒家の、本家本元の孔子の言葉ですが、私は人生問題についてはこの言葉に尽きているのではないかと思います。

さて最後に、ヤコービの言葉を引用させていただきます。
フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743年 - 1819年)は、ドイツの思想家、著作家。
ヤコービという人の名は哲学書などでも出てくるので、知ってはいましたがその著作は読んだことはありませんでした。
その訳書も少ないようです。
日本ではあまり知られていないのかも知れません。
私が興味をもったのはショウペンハウエルの「知性について」の中で、ドイツ神秘家の一人としてその名が出ていたからです。
インターネットで調べてみると、ウィキペディアにこの人の思想についての解説がでていました。
そこでの解説は私の考えとおおむね一致するものでした。
その解説によると、ヤコービの考え方の要点は次のようになるかと思います。

まず彼は哲学によって真理に到達することは出来ないといいます。
哲学(思弁的論証)は論理の体系的な網目を循環しているだけであり、その体系を根底において支え保持している超感性的な対象(とりわけ神)を把握することができない。
しかし人間の精神、人間の理性は、論弁的な部分と並んで、超感性的、超自然的なものを直接的に受容する能力を備えている。
それによって、人間はなにかしらが「ある!」という事実を感情的に感得することができる。
ただ、その根源はそれ自体理性的なものではなく、理性的な仕方でその存在と根拠を説明されうるものではない。
したがって、論証に依らない「信仰」の立場へと立ち還ることが、一種の「飛躍」ないし「死の跳躍」によってのみ可能である。

以上がおおよその内容だと思いますが、ただ注意すべき点として、信仰は受動的なものではなく、自発的な「取り入れ」であるとしていることです。
ここでの文面からだけではその意味がはっきりしませんが、おそらく理性によって神秘なるものを受け入れるということではないかと思います。
であるならば、今回私が述べてきたことと一致することになります。

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感性

現代日本では、死後の世界はないとか、神なんていないとか、そういう人が半数以上だと思いますが(私はそういうものがあるのかないのかわからず、日々探求している立場です)、そういう人々は、何故そう決めつけてしまうのか、不思議に思っています・・・

そういう人たちは、神はいないとか、人間は死んだら終わり、人生は一回こっきり、という直観(感性)を大切にしているのでしょう・・・

つまり、人間の知性・論理・理性の限界があって、その限界の上にある感性・倫理・信仰が大事だという老子やヤコービの考えでは、無神論者や現実主義者と同じになってしまうのではないかと危惧しております・・・

『信仰は受動的なものではなく、自発的な「取り入れ」であるとしていることです。』という能動性というか、私から言えば傲慢さが人の思考を停止させてしまうのではないかなと・・・

おごらず、きめつけず、柔軟に考えていきたいと思う今日この頃です・・・

ブログ更新、また楽しみにしております!
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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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