プラトンのイデア論(2)

前回でも指摘したように、プラトンのイデア論は論理的に明解であるとはいえません。
生成流転する現象界の背後にある真実在としてのイデアということですが、論理的に首尾一貫しているわけではなく、どこか曖昧な部分を残しています。
プラトンの弟子であるアリストテレスは、このイデア説の曖昧さを嫌って独自の論理を展開することになります。
「イデア説の批判から直接に、アリストテレスの体系の枢軸をなしている質料と形相という二つの根本規定が生まれてくる。」(シュヴェーグラー西洋哲学史)

ここでアリストテレスのイデア論批判に移る前に、いま一度プラトンのイデア説を詳細に見ていきます。
シュヴェーグラー西洋哲学史 第十四章 四のプラトンの弁証法という項目に、プラトンがイデア論に至ったいきさつが述べられています。
プラトンがパルメニデスやヘラクレイトスの影響を受けていることは前にも書きましたが、それだけではなくソフィストと呼ばれる人たちからも影響を受けています。
ソフィストとは金銭を受け取って弁論術や政治・法律などを教える教育家たちだそうです。
現在では授業料を取って教育するのは普通のことですが、当時ではあまり良い意味では呼んでいないようです。

プラトンはそのソフィストの一人であるプラタゴラスの感覚論に反論するかたちで、知識とは何かに論究しています。
プラタゴラスの感覚論とは、「全ての認識は知覚であり、両者は同一である」つまり我々が認識するものは全て、知覚や感覚を通したものということです。
これに対してプラトンは精細に反論していますが、要点は「全ての認識が必ずしも感官のはたらきによって媒介されたものではなく、そのほかに精神的な諸機能をも前提している」ということ。
すなわち、我々の認識を構成しているのは、知覚や感覚からだけではなく、我々自身の生得的な思考をも前提にしているということです。
また、知覚や感覚だけではなく、意見(表象)も知識(真の認識)と同一ではないといいます。
なぜなら、意見(表象)は弁論の術によって作られうるからです。
ここでプラトンは、真の知識は知覚や表象からではなく、生得的な思考によって得られるとしているのです。
「したがって、認識には二つの源泉があるわけであって、感覚と表象および理性的思考がそれである。感覚は不断に生成変化するもの、まったく瞬間的なものに関係する不確かな認識の源泉である。思考はこれに反して、発生も消滅もせず、常に自己同一な恒存的なものに関係する。」
つまり次のような関係になるといいます。
・感覚 知覚 表象 生成変化して存在しないもの → 臆見(憶測による意見)
・思考 理性 内的な魂 常に同一状態にある → 真の知識 → イデア
ですから、「真の知識は純粋でまったく内的な魂の作用から流れ出てくるのであり、事物を全くあるがままに、永遠の本質と不変の性質とのうちに見る。」のです。
したがって「知識とは真実在すなわちイデアに関する思考である。」といえます。

以上、真の知識についてですが、一応ここまででもイデアについての凡その見当がつきます。
しかしプラトンはさらにこれを思弁的に導き出そうとするのです。
ただ、ここが問題なのです。
これを思弁的に導き出そうとすることによって、逆に多くの矛盾を抱えることになったのだと私は思うのです。
真理を論理で導き出すことは不可能であり、象徴的な言葉で語る以外にないというのが私の考えです。
それはともかくとして、ここでプラトンが前提にしているのは、概念が全ての存在の根拠になっているということです。
「現象の世界は概念をその内容としてもつかぎりにおいてのみ存在しているのである」
我々の思考の内にある概念が全てであり、現象界は仮象であるということは、いわば唯心論のような考え方であるわけです。
しかしプラトンはそこまで徹底しているわけではなく、現象界との関係は曖昧なままです。
「二つの世界すなわち感覚界とイデア界とがどんな関係にあるかという問題となると、プラトンの答えは不十分でもあれば矛盾もしている。かれは概して事物のイデアへの関係を分有と呼び、事物を模像、映像と呼び、イデアを原型と呼んでいるが、これはきわめて不明確であって、アリストテレスがこのような表現を空虚な詩的比喩と名づけているのは当然である。」
「困難は、一方には生成および生成する領域の実在を認めながら、他方には不動で常に自己同一の実体であるイデアだけを現実的としていることから生まれる矛盾のうちにある。」
ということですが、ここで注意すべきことは、「一方には生成および生成する領域の実在を認めながら」とある部分です。
実はプラトンは非有(仮象)の存在を認めているのです。
これより前の、「イデア論の由来」という項目の中に次のような解説があります。
プラトンの書いた「ソフィステス」の目的は「仮象すなわち非有の実在性を確認し、有と非有との関係を思弁的に論究することにあるのである。エレア学派(パルメニデスの説)の教えは、あらゆる感覚的認識をしりぞけ、われわれが知覚すると信じている事物の多や流動を仮象とすることをもって終わっていた。この場合、非有を全く否定しながら、しかもそれが人間の表象のうちに存在することを認めているのは明らかに矛盾である。」ということです。
ここでプラトンは弁証法的にパルメニデスの説を批判しているわけですが、しかし後にアリストテレスによって、同じ論法で批判されることになります。
それはひとまずおいて、プラトンの弁証法を見てみましょう。
「プラトンは以上のように非有の実在を確定してから、有と非有との関係、すなわち概念一般について結合および分離の関係を研究している。」
そして、次のような結論を導き出しています。
「有がなければ非有はなく、非有がなければ有はない。」
これは概念の相互依存関係を言ったものですが、有も非有もたがいに対立する概念の上になりたっているということです。
全ての概念は単独にあるのではなく、何らかの仕方で相互に関連し合っているという考え方は、プラトンだけではなく、比較的ポピュラーな考え方です。
たとえば、仏教の「縁起」にもありますし、「荘子」でもでてきます。
ただ、プラトンはパルメニデスの存在論を引き継ぐかたちで、有と非有の関係を問題にしていることと、思考や理性をよりどころにし、弁証法で明らかにしようとする点では違います。
ここで話がちょっと逸れますが、私見をはさめば、この「思考や理性をよりどころにし、弁証法で明らかにしようとする」という態度こそは西欧哲学を貫いている方法論といえるのではないでしょうか。
「存在とは思惟することである」と言ったパルメニデスを筆頭に、「徳は知識である」としたソクラテス、そしてプラトン、アリストテレスはもとより、近代哲学に至るまでその底流にあるのは、この人間の知性への信頼、信仰であったわけです。
そして、これこそが現在のこころの閉塞状態を齎した原因になっているというのが私の考えです。
それについてはまた後ほど書くとして、次にプラトンは有と非有との関係を一と多という言葉に置き換えています。
「非有とは考えることも、言い表すこともできないものであるが、我々がそれについて語る場合、非有が存在しかつ多であるとせざるをえないからである。」
ということで、有も非有も我々に概念としてある以上、それは存在しているという前提のもとに、有を非有の統一として一であり、非有すなわち現象の多様さをもって多としているわけです。
そしてそれは次のような関係になります。
・有 → 非有(現象)の統一としての一 → イデア
・非有(現象) → 現象の多様さをもって多
「したがってプラトンは一と多との弁証法のうちでイデアと現象界との弁証法を述べようとしているのであり、言い換えれば現象の多様のうちにある統一としてのイデアにかんする正しい見解を弁証法的に規定しうちたてようとしている」のです。

さて、プラトンは以上のような考え方こそ、パルメニデスの真の教えだと確信したのですが、もちろんエレア学派の意見とは正反対になっています。

つづきは次回で。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR