密教 大日如来

目に見えることだけしか信じないという少女に「では、神様も信じないのだね、神様も目に見えないでしょう」と問いかけたところ、少女はきっぱりと「神様がいなければ、私達も生きてはいないわ」と答えたという話がヤスパースの哲学入門(草薙 正夫訳)にでています。
むろんこの少女はごく普通の子供であり、特別な教育を受けているということではありません。
以前に誰からか聞いたということはあるかもしれませんが、とにかくこの時は自分の考えとして答えているのです。
そして、このような話は数多くあるそうです。
ヤスパースがここで言わんとしていることは、「人間が人間である限り、根源的に哲学するものである」ということですが、その証拠として、子供から発せられる「哲学すること」の根底に触れる事柄の多さに注目しているのです。
また、同様な傾向は精神病患者にもあるとして、その初期に、人を感動させるような形而上学的形而が生まれることがあるといいます。
「子供とばかは真実を語る」という諺が西洋にはあるようですが、よけいな知識に曇らされていない、純粋なこころに近いということでしょう。
そういう意味では、私もその資格があるかもしれません。


さて、私はヤスパースとは別の意味で、この少女の言葉に興味があるのでして、人間は本来的に神の概念があるのではないかということです。
論理によって導かれたのではなく、生まれながらにして元々ある、生来的なものではないかということです。
「人間の精神は生まれたときは白紙状態であり、経験と知識によって形づくられていく」という考え方がありますが、確かに一面的にはそのようにいえるでしょう。
しかし、少なくとも白紙状態という状態は生来的にあるわけで、人間の知識を超えた何者かの関与を否定することはできません。
あらゆる民族にも神、あるいはそれに類似した概念があることは承知の如くであり、子供にさえ説明を要しないほど明白な概念であるわけです。
神を否定する場合にも神という概念を前提にしているのであり、自分という存在を疑えないのと同程度に神の存在を疑い得ないのです。


人間の精神は意識の流れであり、一瞬といえども留まることありません。
その意識を生み出している我々の肉体も、同様に常に変化しています。
人間の肉体は自然の一部であり、自然無くして存在し得ないことは言うまでもありません。
そして、その自然もまた刻々として変化している現象であるわけです。
しかし、常に変化しているとは言え、全てが一体であり、変化している現象を総体として見れば、不動な一つ実体であるとも言えます。
いづれにしても、我々は現象は認識できるけれども、それを動かしている生命を捉えることは出来ません。
我々の意識に上ってくるのは、常にその現象であって、そのものではないのです。
そのものこそ、正しく神であるわけです。
ですから、神は自然の本質であり、我々の本質でもあるわけです。


というわけで、話を本題の密教の方に戻しますが、密教ではこの神を大日如来といいます。
もちろん、ここで言っている神と大日如来は違うでしょうが、当たらずとも遠からずといったところでしょう。
密教では大日如来ですが、華厳経では毘盧遮那仏といいます。
密教は華厳経から発展したと言われていますので、毘盧遮那仏が元になっているのでしょう。
ただ、毘盧遮那仏は沈黙して、何もしゃべらないのに対して、大日如来は自らが説教するそうです。
毘盧遮那仏といえば奈良東大寺の大仏が有名ですが、確かに大宇宙を統べている仏にふさわしい像ではあります。


さて、密教がそれまでの仏教になかったものを提示したということですが、その一つはやはり大日如来ということでしょうか。
しゃべる大日如来ということです。
それまでの大乗経典では釈迦が説法していたのですが、密教経典では大日如来が直接説法しているわけです。
大乗経典は釈迦の教説という形式にはなっていますが、実は創作であって、歴史上の釈迦が説いたものではありません。
経典の作者は釈迦の真意はこれであると、自信もって書いているのです。
その自信はどこからくるのでしょうか。
やはり真理であるとの確信からでしょう。
西洋でも似たような話がありまして、たとえばプロティノスはネオプラトニズムの創始者として知られていますが、「プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた」(ウィキペディア プロティノス)ということですから、こういうことはあり得るのではないでしょうか。
ですから、大乗仏教まではあくまで釈迦の教説という立場から書かれているのですが、では密教はどうでしょう。
密教は明らかに釈迦の教えから離脱しています。
すでに仏教ではないのです。


というわけで、また次回。


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奈良東大寺の大仏は毘盧遮那仏(大日如来)だったんですね。
いつか見に行きたいようにも思いますが…

しかし密教伝来までの日本には、一神教的な考えがなかった
ということでしょうか。
その頃の子供に聞けば、一神教的な神の概念はなかったということに
なるかもしれません。

本来的に神の概念があるかどうかは、世界中の子供を対象に
科学的な調査をすれば分かるように思います。
特に一神教でない地域の子供に聞けば分かるように思います。

しかし仏教というのは本当に柔軟な宗教だと思いますね。
釈迦の考えを元に、後世の人がどんどん追加していく、
そこで様々な考えが出揃うので、自分に合った考えを選ぶことができる、
多くの人の人生を豊かにする教えだと思います。
他の宗教ではこうはいかないと思いますね。

密教については私もあまり知らないのですが、その特徴となる
大日如来という存在が、他の宗派と違い魅力的であるように思います。
そのような世界観やありがたい存在は、八百万の神のある日本では
馴染みやすいし、祭り、拝みやすいものだと思います。

密教についてより詳しく知りたいので、次回記事も楽しみにさせて
頂きたいと思います。

Re: タイトルなし

なかなか興味深い意見をありがとう。
一神教であるかという問題は私の考えも及びせんでした。
本来、神というのは我々の思考を超えた存在であり、言葉で言い表せないのですが、あえて言葉で表現したのが神とか仏であるわけです。
我々の意識の中に取り入れやすいように、自由に想像して構わないのだと思います。
肝心なのは、我々は不滅の存在であること、そして正しい道を歩むことによって、それが明らかになるということではないでしょか。
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magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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