釈迦の実践主義

前回、密教は仏教ではないと書きましたが、もちろんこれは私の解釈であって、定説では後記大乗仏教に含まれるということです。
釈迦の教えが仏教であるならば、釈迦の教えでない密教は仏教ではないというのが筋とは思いますが、釈迦の教えをさらに進めて、釈迦の教えを超えたものであるということならば一応納得できます。
もともと釈迦には偶像崇拝の概念はなく、神の存在すら認めていなかったということです。
しかも、哲学的論議すら回答、言及を避けた(無記)といいます。
その教えは、あくまで実践に則したものであり、役に立たない無用の議論については答えませんでした。
釈迦の目的ははっきりしており、この世の苦しみからの脱却です。
そして、苦の原因を人間の欲望とみて、欲望を抑えることを説いたのです。
あくまで実践主義であったわけです。
釈迦の教えというのは、意外と素朴で単純なものだったのかもしれません。


釈迦の教えは欲望論が中心ですが、かと言って欲望論に留まるものでもありません。
釈迦は哲学的議論には無記という立場であったのにもかかわらず、一方で縁起とか無我とか中道などということを言っています。
後世の人たちが、これらの言葉を掘り下げて、さらに哲学的解釈を展開していくことになるのですが、それにしてもやはり、無記とか欲望論は徹底的に考えた末の結論であったと思われます。
なぜなら、我々自身、どんなに哲学的議論を深めても、結局釈迦の結論にたどり着くからです。


人類は何千年にもわたって真理を追い求めてきましたが、いまだに結論が出ていません。
私もこのブログで何度も言っていますが、人間の思考は相対的な概念から抜け出ることはできず、どんなに推論を重ねても、出てくる答えは相対的な概念でしかありません。
絶対的なものを言い表す場合にも相対的な言葉を用いざるを得ないのです。
「究極の真理は不可説だ、とそう語っているじゃない」(哲学としての仏教 竹村牧男より)というわけです。
ですから、数学のような論理的整合性のある解答は期待できません。
数学が我々の思考の中に在るとすれば、真実の世界は我々の思考を超えたものであるといえるでしょう。
我々は真実を求めようとして、我々の思考の中を永遠に回ることになるのです。


以前私は犬が回っているのを目撃したことがあります。
何をしているのかと見ると、自分の尾に咬みつこうとしているらしい。
尾に咬みつこうとすると、当然、自分の尾も逃げることになるので、そこで、くるくると回っているわけです。
私はその後、犬がめでたく尾に咬みつくことができたかどうかは知りませんが、疲れて諦めてくれることを祈るばかりでした。


ところで「諦める」とは、本来は真理を明らかにする意味でしたが、どんなに考えても分からないので、現在の「諦める」の意味に変わったということです。
私はこの「諦める」を消極的な意味ではなく、積極的な意味で「諦めるべきだ」と言ったのが、釈迦の無記ではないかという気がするのです。


今読んでいる本「般若心経の謎(百瀬明治)」の中に興味深い言葉をみつけました。
死期を悟った玄奘三蔵がしきりに口ずさんでいた句です。
玄奘三蔵といえば、西遊記でおなじみですが、もちろん実在の人物で、中国の仏教伝来に大きな功績を残し、生涯を仏教にささげた人です。
その玄奘三蔵が死を前に口ずさんでいた句とは次のようなものです。
「色蘊は不可得、受想行識もまた不可得なり。眼界は不可得、乃至意界もまた不可得なり。眼識界は不可得、乃至意識界もまた不可得なり。無明は不可得、乃至老死もまた不可得なり。乃至菩提は不可得なり、不可得もまた不可得なり」
要するに、何も分からないということであり、分からないということも分からないということです。
不可得とはまた不可得空ともいい、分からないけれども、分からないものが真実在として在るという意だと思います。


さて、釈迦は神の存在を認めていなかったということですが、これはあくまでも人格神としての神を認めなかったということで、神的なものを全て否定したのではないのでしょう。
人間の安心立命は、神的な拠り所がなければ不可能であると私は思うからです。
釈迦が目指した涅槃とは、神的なものを覚知する境地であるのかも知れません。


つづく


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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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