思いついたことなど

前回は犬がくるくる回転している話をしましたが、私自身未だに同じところをくるくる回っていて決着地を見出せずにいます。
決着地を見出した時がこのブログの終了ですが、まだ当分終了できそうにもありません。
「凡夫のこころに決定はない」と言った一遍上人の言葉が現実味を帯びてきます。
我々の意識自体が相対的な概念によって成り立っている以上、どんなに探し回っても相対的な概念しかでてきません。
絶対的という言葉も相対的な概念です。
相対的な概念の中にいる以上、永遠に真実に到達することはできないのです。
なぜなら相対的な概念は真実そのものではなく、真実の影にすぎないからです。
どんなに自然を精巧に写し取った絵でも、自然そのものではないのと同様に、ただそれを言い表して人に伝える道具にすぎません。
相対的な概念とは他の概念を前提にした概念であって、それ自体で成立するものではありません。
全て一色であったならば我々は何も認識することは出来ず、他の色と異なる色があってはじめてその色を確認できます。
他の色と区別することによって、始めてその色の概念ができるのです。
概念、即ち言葉によって言い表すのですが、言葉にした途端に、そのものではなく、その呼名となるわけです。
その呼名、概念によって我々の意識が形成されているのです。
なぜそうなっているのかは分かりませんが、そういう宿命になっているのは確かです。
我々の意識、認識は真実を見るためにあるのではなく、我々が生きるための道具としてあるのかもしれません。
人間の知恵は強力な武器となり得ます。
しかし一方において知恵は人生の矛盾を暴き出してしまうのです。
人間は自分の肉体を拠り所としている限り、生老病死という苦から抜け出ることは出来ません。
人間は生まれて成長し、やがて老いて死にます。
人間は肉体的生存から抜け出ることが出来ないように思えます。
しかし、これはあくまで人間の相対的な概念によって分別した思考にすぎません。
真実の世界には生も死もないのです。
人間は一方において肉体的生存でありながら、一方において宇宙の本質そのものです。
なぜなら、人間は全宇宙と一体であるからです。
全てが一体ということを、華厳宗では事事無礙法界(じじむげほっかい)という言葉で言い表しています。


さて今回は思いついたことをだらだらと書いただけです。
いろいろと構想は浮かぶのですが、それを書き写すまでには至らなかったというわけです。
次回は多少まとまりのあるものを書いてみたいです。
ではまた次回。


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こんにちわ。言葉、概念というものは、物自体につけたラベルであり、
物自体を表すものではない、そのため真実を表すことができない、
ということだと思いますが、私は言葉、概念というのは確かにラベルですが、
それは物自体を指し示しているものであるのだから、それはつまり
物自体を指し示せている、つまり物自体とイコールで良い、
世界の真実を表せている、例えば「この世界の全て」という言葉は、
この世界の全てを表せているのだと思います。
言葉というのは元来そういうものであるのだから、言葉としては十分に
表せている、言葉としてはやれるだけのことをやっている、
それ以上のものなどそもそもないのだから、言葉として十分世界を
表せているのだと思います。

言葉は相対的なものである、赤という言葉は、世界を赤と赤でないものに
分割している、というのは確かにそうだと思います。世界を分割せず
そのまま概念として捉えるというのは本当に何も考えていない状態
なのだと思います。ただ何も考えていないのなら、捉えた、と言えるか
どうか分かりませんが。ただこれと上のラベルの話は別だと思います。
何だかそれをごっちゃにしているように感じました。

物自体とラベルの分割は、それは元来言葉とはそういうものであり、
世界を表せない理由にはならないと思います。
世界は「この世界の全て」という言葉で表せていると思います。
ただ赤と赤でないものの分割というのは、確かに世界を分けていると思います。
つまり赤のラベルと赤の物自体、赤でないもののラベルと赤でないものの
物自体、の4つに分割されるのだと思います。
ただ言葉にはラベルという性質があるので、「この世界の全て」
という言葉で世界の真実を表すことは可能です。
これは言葉の持っている性質なのだと思います。

赤と赤でないものは確かに分割されますが、ラベルと物自体の分割は、
物自体というものが存在するという信仰がないと存在しないものだと
思います。そのためこの2つは別々に論じるべきだと思いました。

Re: タイトルなし


コメントありがとう。
さて、「言葉は真実を表現しているのだから、言葉は対象そのものと考えてよい。
言葉は相対的なものであるという話とは別である。」ということでしょうか。
言葉が相対的であるということは納得されているようですが、言葉が真実を表現できないということが納得されていないようです。
おそらく、言葉とは別に真実の世界があるということが納得できないのでしょう。
しかし、これは私の考えというよりも、仏教の空の考えの基本ですし、カントの物自体という考えかたにも通じます。
言葉の論理では、この世の矛盾を解消することができないために考え出されたのです。
むろん仮説にすぎず、信ずる信じないはその人の自由です。

「言葉が真実を表現できない」ということについては納得できませんが、
「言葉とは別に真実の世界がある」ということについては、
別にそれでも構わないと思っています。
本質的ではなく細かい所について触れさせて頂いています。
「言葉で表現できないものをあえて言葉で表現する」という時の、
「言葉で表現できない」とはどういう意味であるか、複数通り考えられる
のではないかということを言っています。
例えば体験しないと分からないもの、海を見たことがない人に海を
説明することの難しさ、海を見たことがある人は、海と一言言えば
それが伝わります。つまり言葉というものはラベルを貼るものであるので、
経験しさえすればどんなものでもラベルを貼ることが出来る、
言葉で表現できないものはない、と考えています。
つまりそれは体験できる/できないの話であって、言葉で表現できる/できない
の話ではないと思っています。この世には言葉で表現できるものしか
ありません。一方、「言葉で表現できない」をそれは言葉が相対的であるから
と解釈すると、確かに相対的なもので絶対的なものを表すことはできませんが、
一方言葉にはラベルという性質があるので、絶対的なものであれ、
ラベルを貼ってしまえばそれを表すことはできます。悟りを開いた人が
それを「それ」と名づけたり、「神」「道」「無限」などと名づければ、
それを表すことはできます。ただラベルはラベルであって真実ではない、
と言えるかもしれません。それと相対的なものであるから絶対的なもの(真実)
を表せない、ということとは関係がありません。言葉にはラベルという性質と、
相対的であるという性質がありますが、それぞれ関係がありません。
真実を表せないのはラベルという性質によるものであって、相対的であるから
ではないと思います。

Re: タイトルなし

ラベルと相対的にこだわっていらっしゃるようですが、私にはそれほど重要な問題であるとは思えません。
このブログの主旨は人間の幸福の追求ですので、それに資する議論以外には深入りするつもりはありませんので悪しからず。

こんにちわ。私も特に重要な問題であるとは思っておりません。
ただ「言葉で表現できない」という表現に少し引っかかったので、
私が引っかかるということは他にも引っかかる人もいるということ
だと思うので、引っかかっている人がいるという情報を伝えようと
思って書きました。
プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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