神は存在するか

「神はどこにいるの?いるなら見せてくれ」と、無神論者が聞けば、「神はそのおろかな質問をしているあなたの心の中にいる」と、有神論者は答えるかもしれません。
さらに、この答えに付け加えるなら「求めざる者には見えない」と、しましょうか。
キリストも言っているでしょう「求めよ、さらば与えられん」と。

さて、神の議論をする前に、神とは何かを明確にしておかなければなりません。
そもそも、神という名は人間が付けたもので、本来人間の認識を超越した言葉や文字で言い表せない真実在のことを指しているのです。
なぜ言葉や文字で言い表せないのかというと、言葉や文字で言い表そうとすると、とたんに有限な存在になってしまうからです。
言葉や文字は、対象を分けることによって成り立っているのです。
しかし現象界の物事は厳密にいえば、何一つとして分けることは出来ません。
別々に独立して存在しているものなど何も無いからです。
仏教ではこれを縁起と言っています。

神とは本来、言葉や文字では言い表せないのですが、それでは他の人に指し示すことも、自分の意識の中に取り込むことも出来ません。
ですから、あえて名をつけているのです。

人間は文字や言語によって思考しているのですから、人間の考えは全て相対的であるということになります。
絶対的なものを言い表す場合にも、相対的な言語を用いています。
我々の思考はことごとく相対的であり、決してその外には出られないのです。

ただ、科学のように相対的な思考の範囲内であれば、その外に出る必要はありません。
ではなぜ、思考の外に絶対的なものを想定する必要があるのかといえば、相対的な思考では首尾完結しないからです。
相対的な言葉をいくらつなぎ合わせたところで、この世界の森羅万象をからめ捕ることはできません。
(たとえば、二律背反のように)ですから、否応なく想定せざるをえないのです。

当然、想定するものは神であるとは限りません。
カントの物自体、ショウペンハウエルの盲目の意志、老子の道、古代インド哲学のアートマン、考え方や表現の違いはあっても、その意味しているところは共通のようです。

ところで、ショウペンハウエルの盲目の意志は別にして、皆、道徳と深く結びついています。
道徳そのものを指している場合もあります。
「キリスト教の神は愛である」という表現などは、明らかにこころの在り方、即ち、世界の本体としてではなく、人間が正しい道を歩むことによって得られる心の充足感を意味していると思います。
愛なくして道徳はあり得ないからです。

同じことは仏教でも言えます。
確か、華厳経で善哉童子が求道の果てにたどり着いた教えが慈悲だったと思います。
我々は世界の根本原理というと、理論や現象の本体のように感じますが、
実は、「こころの在り方こそが真理である」と、言えるかもしれません。

カントは「英知界にある道徳律(善意志)のみが、唯一到達可能な物自体である」
と言っていますが、これは言い換えれば、人が善意志(愛)の中に在るとき、対象としての神ではなく、神そのものになっている、と言えなくもありません。

そして、最後に一言付け加えるならば、実は我々は皆神を知っているのです。
古今東西いかなる場所でも、言葉は違えど、神という概念は人々に自然に受け入れられているし、子供でも神をすぐに理解します。
我々の背後に在って、理屈を超えたものとして、善なる意志として、そして最後の拠り所として、皆神を知っているのだと思います。
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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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