死について

人間にとって、死ほど忌まわしいものはありません。
考えることすら、出来れば避けたいところです。
もし、人間に死が無かったとしたら、宗教も哲学も生まれなかったでしょう。

この世に確かなものなど何一つ無いといわれる中で、皮肉なことに、死だけは確実にやって来るのです。
この死に対して、人はどう対処しているかというと、嫌なことはなるべく考えない、見ない、聞かない、といった消極的な方法ではないでしょうか。
考えても分からない、避けられない、となれば、考えない事こそ最善の方法と言えなくもありません。
ただ、パスカルの「考える葦」ではないですが、考えることこそ、人間の尊厳と偉大さがあるのならば、やはり、理性によって克服すべきではないでしょうか。

では、死とは一体何かといえば、科学的、客観的に見れば、ただのありふれた現象で、生があれば、死があるのは当然のことです。
言わば、自然の成り行きであり、むしろ死がないとしたら、そちらの方が一大事です。
でも、自然界の動植物、あるいは他人に関しては、そう言えても、こと、自分に関してはどうでしょう。
はたして、冷静でいられるでしょうか。

まあ、それはともかくとして、それでは、なぜ死がそんなに忌み嫌われるのでしょうか。
まず第一に考えられるのは、死には痛みが伴なうということ。
病気でも、事故でも、あるいは自殺でも、原因は何であれ肉体的な苦痛を伴います。
ただ、現在では薬物による安楽死などというのもありますし、苦痛を伴わない方法も無い訳ではありません。
次に考えられるのは、財産を失うこと。
長年、蓄積してきた財産を自ら使うことなく、人に譲るのは耐え難いという人もいるでしょう。
もっとも、もともと無い人には関係のない話ですが。
次には、愛する人と別れなければならない、というのもあるでしょう。
これも、愛する人がいればですが。
さらに、ただ漠然として死が怖いという人がいるかもしれません。
長年住み慣れたこの世から、まだ見ぬあの世へ旅立つのは不安です。
しかし、考えてみれば、生まれて来る前はあの世にいた訳ですから、もと居た場所に戻るだけの話です。
ただ、その記憶が無いだけですが、それは無の無たる所以ですから仕方ありません。
多少の不安はあるにしても、故郷に帰ると思えば、それほど不幸である理由はみつかりません。
そして、最後に、人間は本能として、生まれた時から、すでに死の恐怖心を持っている。
と、いうのがあります。
これは、人間に限らず、全ての生物に共通の本能で、動物は死を知らないのにも関わらず、死から逃れようとします。
植物においても、生きようとする意志がある以上、死を避けようとするでしょう。
そもそも、死の恐怖心がなければ、世界が現在ある様な姿には成っていません。
生物が容易に死んでしまったら、個体の保存も種族の保存もあり得ないからです。

さて、そいういう訳で、死の恐怖心には何ら合理的な根拠はなく、単に本能によってあるのみということになります。
しかし、本能によってあるということは、逆に言えば、完全に無くすことは出来ないということを意味します。
ところで、死に対する受けとめ方は、人により千差万別です。
平静を保つ人もいれば、精神に異常をきたす程ショックを受ける人もいます。
この違いはどこから来るのでしょうか。
もちろん、その人の性格にも依るでしょうし、普段の考え方の違いもあるでしょう。
宗教を持つ人と持たない人でも違うでしょう。
いずれにしましても、死の恐怖心を完全に無くすることは出来ないまでも、最小限にすることは可能だと思います。

さて、古代ギリシャの哲学者エピクロスは、「賢者は死を恐れない。何故ならば、私が生きている間は死は来ない。死が来た時には私は存在しない。従って、死は私に関係ない。」と、言っています。
確かに、もっともな話ですが、根本的な解決とはいえず、慰め程度にしかならないかもしれません。

ところで、再三、カントを採り上げていますが、今回もまた参考にさせていただきます。
これは、前に「人生の根本的な矛盾」の題で書いた中の一部です。
「カントは全ての存在を、我々の認識の世界と物自体の世界に分け、それぞれを感性界・英知界としました。
人間はこの両方にまたがって存在していることになります。
感性界において認識不可能とされた神・自由・魂の不死などの問題は英知界で解決されるとしています。
即ち、英知界にある道徳律のみが、唯一到達可能な物自体である。」

今回は、これを私なりに解釈して次のようにしました。
「人間は感性界おいては肉体を持つ個体として、その欲望に支配される存在にすぎないが、英知界においては人がその善意志(愛)の中に在るとき、全世界の一部として、即ち神に属する存在であり、従って不死であり自由である。」
人間には、もともと善なる意志があるが、個人としての欲望の影に隠れて、表に出ることはまれです。
しかし、肉体はいずれ消滅するものであるし、我々の意識も肉体と共に消滅します。
消滅するものに執着することによって苦悩が生じます。
その執着を断つことによって、善なる意志が顕われ出ることになり、従って、魂の不死、自由を体得することが出来るという訳です。

さて、理屈はともかくとして、我々が実際に死を恐れない状況とはいかなる場合でしょうか。
まず、考えられるのは「生の苦痛が死の恐怖心を超えたとき」というのがあります。
これは、どんな不幸もそれ以上の不幸によって消えてしまうという当然の話です。
次に「人間が興奮状態に在るとき」は死の恐怖を感じないことがあります。
何らかの原因で極度に精神状態が昂ったときには死の恐怖を忘れてしまいます。
たとえば喧嘩や事故、あるいは戦争や災害にあったときなど。

しかし、これらの場合は単に理性や感情が麻痺しているに過ぎず、理性によって死の恐怖を克服したとはとても言えません。
では、冷静な理性に基づいて、しかも安らかに死を迎えることが出来る場合とはどのようなときでしょうか。
それは人間が確固とした信念に基づいて行動しているとき、たとえ他人からみて間違った考え方と思われようとも、その人自身が納得していること、そして己の生命よりその信念の方を優先している場合です。
たとえば、家族や恋人などの愛する人のため、戦争状態においては国のため、あるいは名誉のため、昔では主君のためなどというのもあったでしょう。

この様にいろいろな心の状況が考えられますが、しかしいづれの場合でも神仏に対する信仰心には及ばないでしょう。
なぜならば、他は自分以外の全ての人を対象にしている訳ではなく、ある人のためではあっても、それ以外の人のためではないからです。
真の宗教において、正しい信仰心を持つことにより死の恐怖心が完全に消滅するのは確かです。
それは過去の聖人の証を俟つまでもなく、身近な人にも見受けられるからです。
そして、この信仰は万人に対する愛が前提でなければならないでしょう。
自分の宗派のみを認め、他人の宗派を排除するなどというのは論外です。

確かに信仰心によって、死の恐怖心から逃れることが出来ます、しかし全ての人が信仰心を持っている訳ではありません。
宗教にはいろいろ問題がありますので、宗教を見分ける目が必要になってくるでしょう。

ところで、昔から言い古された「人として歩むべき正しい道」、己の良心に恥じない生き方を我々は知っています。
長い歴史の中で培われてきたこの生きるための知恵は、また安らかに生涯を閉じるための知恵であるのかもしれません。

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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