悲観主義

よほどの能天気でない限り、人生において一度も悲観主義に陥らない人はいないでしょう。
真剣に生きようとしている人ほどその挫折も大きいものです。
悲観主義とは単にこの世のむなしさを嘆いているのではなく、真の生き方を求めての反動と言えなくもないのです。
悲観主義者は暗に悲観主義の否定を求めているのかもしれません。

さて、悲観主義者といえば、この人を思い浮かべます。
もちろんショウペンハウエルです。

彼は三十歳位で主著「意志と表象としての世界」を著し、それ以後は主にその注釈と補遺で過ごしたといわれています。

彼によると、世界は徹頭徹尾、我が表象であり、表象と共に世界は存在し、表象の終焉と共に世界は消滅する。

しかし、表象は世界の一面にすぎず、他の一面は意志である。
それも何ら合理的な目的を持たない盲目の意志である。

世界を突き動かしているのは正しくこの意志であり、有機物から無機物に至るまで万物はことごとく意志の顕現である。

人間には執拗なまでに生に駆り立てる生きんとする意志として顕われる。
そして、それは正に弱肉強食の世界を現出し、人は人にとって狼になる。

人間の歴史は闘争と殺戮の繰り返しであり、強者が弱者を支配することによって成り立っている。

これは、考え得る中で最悪の世界である。
と、結論づけています。

彼の悲観主義はこのような世界観の当然の帰結と言えるでしょう。

この偉大な悲観主義者は悲観論を書きながら、七十すぎまで生きたということです。

まあ、悲観論については、別に難しい本を読まなくても、日々痛い思いをしつつ生きているわが身をかえりみれば、すぐに納得できるでしょう。

ところで、悲観論はショウペンハウエルの専売特許と言う訳ではありません。

はるかに古くから悲観主義を徹底的に展開している人たちがいます。
ほかでもないそれは仏教です。
仏教の経典をひも解けば、いたるところで厭世的な言葉にあふれています。

仏教は御存知のようにブッタゴータマを開祖として、その教えを後世の人たちが、継承発展させた宗教です。

したがって、仏教はブッタの教えというよりも、仏教教団の教えの一群とでも言った方が良さそうなほど多岐に亘っています。
中には同じ仏教かと疑いたくなるほど教義に相異があるものもあります。

いずれにしましても、仏教は悲観主義というよりも、厭世観からの、その救済を主眼としていますので、単なる悲観主義とは違います。

同じことはキリスト教にも言えるでしょう。
キリスト教の象徴が十字架であることを思えば、その根底に悲観主義があるのは間違いないでしょう。

そもそも、宗教はこの世の苦しみからの脱却を意図しているわけで、この世が素晴らしく満ち足りているなら、なにも天国だの極楽だのを求める必要はないわけですから。

仏教については近年になって改めて見なおされているようです。
先にあげたショウペンハウエルやトルストイも関心を持っていました。
仏教が注目されるのはその哲学性だといわれています。
確かに、竜樹の空観論や世親の唯識論などは、宗教というよりも哲学に近いような気がします。

宗教に哲学性が必要かどうかはともかくとして、キリスト教でも哲学が無い訳ではなく、トマス・アクィナスはアリストテレスの哲学を大幅に取り入れることによって、その教理を大成したのです。
彼は、「信仰に至るまでの前提として哲学があり、最終的には神の啓示が必要である。」と、言っています。

私が思うに、仏教もキリスト教もその根底では同じような考え方ではないでしょうか。

仏教の論者達も最終的には認識を超越した絶対的な存在である真如から顕われ来る如来との迎合をめざしているのです。

いずれにしても、悲観論無くして、宗教は生まれないのは確かです。
悲観主義は、真実の道への第一歩と言えるかもしれません。


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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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