アリストテレス以降の哲学

あまり人気があるとは言えないこのブログですが、それでも拍手して下さる方もいらっしゃるようで、まことにありがたいことです。
前回の記事にも拍手が入っていました。
このブログではひさびさの拍手ですが、悪戦苦闘して書いたプラトンのイデア論についてではなく、つなぎに書いた思いつきの雑文に拍手があったという皮肉な結果ではありましたが、とにかく私の考えに賛同してくれる人がいるのはうれしいことです。
本来、人生問題はどのように考えようと自由ですが、やはり社会の一員としては社会に貢献し、常識をわきまえ、正義を愛し、悪を憎むという考えが正論であるのはいうまでもありません。
しかし、これはあくまで社会生活をおくるうえでのモラルであって、人生の根本問題の解決ではありません。
人生における最大の問題である人間の生死に関してはまた別の哲学が必要になってくるでしょう。
聖人君子への道を説いた孔子は、死について「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」といいました。
これはこれで一つの見識には違いありませんが、この答えで納得できる人は少ないでしょう。
老子はこの問題を正面から捉え、万物復帰の考えを示しました。
また、荘子は老子の考えを引き継ぎ、万物斉同の説を唱えました。
老子の万物復帰については以前に書きましたので、荘子の万物斉同について見てみましょう。
「荘子は認識論の立場から、知識のもつ相対性を明らかにし、これによって知識を根本的に否定しようとする。知識という人為を加えないありのままの世界、自然の世界では、あらゆる対立差別は消失し、すべてが斉しく、すべてが同じい、というのが万物斉同の説である。」(森三樹三郎 老荘と仏教)
ということですが、ではなぜ知識を持つことが悪いのかと言えば、知識を持つことによってそれに捉われるからです。
知識とは分別を意味しますが、本来一体であるべき万物を分けて、それぞれに概念をあてはめ、それに固着するということです。
しかし、万物は流動していますので、それに捉われることによって苦が生じることになります。
たとえば、生に執着することによって、死が恐ろしいものになります。
本来、生死は一体のものであり、生もよし、死もよし、と見なければなりません。
「もし、万物斉同の立場にたつことができれば、これらの貧富窮達、善悪美醜の対立は、跡形もなく消え去り、すべてはひとしく、すべてはあるがままにてよし、とする運命肯定の境地に達することができるはずである。生と死の対立もまた、その例外ではない。」(同 老荘と仏教)
とはいえ、その境地に達するのは至難の業です。
なかなか理屈どおりには心の方は動いてくれません。
そこで観法とか行が必要になるわけですが、残念ながら荘子にはそれについての言及はありません。
「この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい。」(同 老荘と仏教)
というわけで、その後の中国の思想史では仏教が主流となっていきます。

さて、同じような展開はギリシャ哲学にも見られます。
ギリシャ哲学といえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが代表であり、そこで一つの山を形成していて、それ以後の哲学はあまり重要視されていません。
シュヴェーグラーの西洋哲学史にも「アリストテレスとともにギリシャ哲学の生産力はつきた」とあります。
そして、それ以降の哲学は学問的関心も政治的関心も失うようになり、もっぱら個人の実践に関心が向けられるようになったといいます。
ですから、哲学の役割は、心の不安を取り除く確実な認識を与えることであり、存在の究極の根拠を説明することであり、そして、どう対処すべきかを教えることにあるとされた。
したがって、客観的な認識に重きをおかず、主観的な真理だけを求める一面的な独断論となっている。
ということですが、確かに学問としての哲学という意味では後退かもしれません。
しかし哲学本来の意義は、人間の生死の不安を除き、真の幸福を齎すために、人生いかに生きるべきかを教えることではないでしょうか。
だとするならば、人間の現実的な問題に関心が移るのは至極当然であるといえるでしょう。
哲学の領域が、宗教と科学をまたいでいるとすれば、より宗教的な問題を扱うようになったということかもしれません。
宗教も科学もその根底を支える考えは哲学的にならざるを得ないからです。

では、アリストテレス以降の哲学にはどのようなものがあるのか、これも同哲学史でみていくことにしましょう。
アリストテレス以降の時期のもっとも重要な哲学説は、ストア主義であるといいます。
ストイックという言葉でも知られているとおり、ストア学派は倫理に重点をおいています。
自然学や論理学を扱う際にも倫理が基本になっています。
人生においていかに生きるべきかという問題は、現実に差し迫った問題であり、最も重要な問題でもあります。
そしてこれを倫理道徳に求めるのも自然であり、これに異論を差し挟む人はいないでしょう。
問題はそこに至る論理の方です。
ストア学派の自然学の特徴は唯物論であるということです。
といっても現代科学のような唯物論的な見方ではなく、この世界を神と見る汎神論なのです。
この汎神論という考え方には、私も今まで幾度となく惹かれました。
神は天上のかなたにいるのではなく、現実のこの世界が神そのものであるという見方は、世界を整合的に説明しているように思えます。
世界が現に在る以上、それを成り立たしめている原因なり根拠があると考えるのは自然な考えです。
そこで神という概念をこれに充てるわけですが、この神はこの世界と別なものではなく、この世界が神の顕現であるとするのが汎神論であるわけです。
しかしここで問題が生じるのです。

この問題についてはまた次回にします。

雑感

前回まで数回にわたってプラトンのイデア論を中心に、ギリシャ哲学を見てきたわけですが、人生の根本問題に関する議論は、すでに古代において出尽くしているのではないかと思えるほどその核心に迫っています。
昨今の本などを見ると、言葉は多いが内容は薄っぺらいというのが大方のところです。
こうしてみると、哲学に限っては時代と共に進化するとはいえません。
よけいな雑念がないということでは、現代人よりもより深く純粋に、こころと直面していたということかもしれません。
それはギリシャ哲学に限らず、老子や仏教にもあてはまります。
それぞれの教えも、祖師といわれている人たちを超えていないのです。

カントは人間存在を英知界(物自体界)と感性界(現象界)の両方にまたがっているとしました。
感性界(現象界)は時間と空間に制約された世界であり、したがって自然因果の支配下にあり、進歩も退歩もあるわけですが、一方、英知界(物自体界)は時間も空間もないのであって、因果律に縛られない真の自由があるということです。
私はこれを科学と哲学にあてはめて、科学は感性界(現象界)の学問であり、哲学は英知界(物自体界)の学問であると思っています。
ですから、哲学とは時代によって進歩するものではなく、それぞれの教えはその時点で完成されたものであるというわけです。

さて、今回は本業の方がいそがしく、なかなかまとまったものが書けませんでしたので、また次回とします。

私の見たプラトンのイデア論

前回はアリストテレスのイデア論批判を見てきたわけですが、その内容はイデア論の修正であったわけです。
全体的に見ればプラトンの哲学をほぼ継承しているのです。
質料と形相という概念によって、プラトンのイデア論の欠陥を修正したわけですが、結局、彼も神との関係においておなじ矛盾に直面することになりました。
イデアと個物との関係が曖昧であり、論理的に不整合であるとした彼の非難は、自分の学説にもあてはまるというわけです。
私に言わせれば、永遠なるもの、絶対なるもの、そして我々の本源といわれるものは、論理を超えたものであり、論理の延長線上にはないのであって、論理をどんなに遡っても真の実体に到達することはできません。
ですから、プラトンやアリストテレスの説に完全な整合性を求めるのは無理なのです。
といっても、このような議論が無意味ということではありません。
我々の理性を正しい方向に導いているのは確かだからです。

さて、プラトンのイデア論ですが、確かに矛盾や論理の飛躍があります。
しかし私はある方向から見ると、全く整合的になることを発見しました。
それは、我々の心の問題として捉えるということ、すなわち唯心論的にみるということです。
もちろん発見したといっても、それは私の中での話であって、イデア論を唯心論的に見るということはすでに多くの先人達によってなされてきたことです。
たとえば、古代のプロティノスという人もそのような見方をしたといいます。
プロティノスはまた唯心論の祖ともいわれています。
では私の考えとして唯心論的に見るとはどういうことかというと、こころの要請としてイデアを見るということです。
アリストテレスやプラトンもそうなのですが、世界を論理的に解明しようとする仕方がその背景にあります。
しかしそこで直面するのが論理の不整合という問題です。
なぜこのような問題が起こるのかといえば、本来論理とは無縁なことを論理的に説明しようとするからだと思われます。
たとえば、幸福とか不幸、善と悪、生と死、喜怒哀楽、食欲性欲など人間の生き方に関することなどは論理とは無縁です。
なぜ恋人を愛するのかと問われても、論理的に説明することはできません。
しかも、我々にとって関心があるのはこのようなことなのであって、形相とか質料などという問題は、はっきりいってどうでもよいのです。
それに、世界は機械仕掛けではないので、全てを因果関係で説明することはできないということもあります。
世界はあくまで無限であって、有限な人間の論理で捉えることができません。
このような観点からみれば、イデア論は単に真なるものを指し示す指であるといえるかもしれません。
指自体が真なのではなく、それが指し示しているものが真ということです。
ですから、イデア論に矛盾があるという議論は、指を見て指の形を詮索しているようなものといえるでしょう。

では、なぜこのようなことが言えるのかというと、プラトン自身がイデア論を仮説であると認めているからです。
しかも、善のイデアは人間の認識を超えたものと言っているのです。
プラトンの記述による第七書簡ではこう言われています。
「善のイデアは、他のもろもろの学問の対象のように、語られうることは決してないであろう。むしろ、それは、長い年月の間、この事柄自体に関わって、共に修行をしているうちに、ある日、突然、飛び火のように、魂のうちに生まれる光であり、この光はそれから以後は己自身を養ってゆくのである。」
つまり、イデア論は仮説であるが、善のイデアは仮説ではない。それは「存在のかなた」の究極の実在だからである。究極の実在について理論的基礎づけなどありえないのである。(岩田靖夫 ギリシア哲学入門)

イデア論の矛盾や曖昧さに対して、プラトン自身あまり意に介していないということの意味がこれで納得できます。
プラトンにとって重要なのは、善のイデアであって、イデア論などはその導入部分にすぎないのです。
それはプラトンの倫理学において端的に表れています。
「絶対の善は、それ自体としてもまた魂にとっても、感性的存在という真実在でないもの、無常なもの、変転するもののうちに生活することではなくて、真実で理想的な存在へ自己を高めることである。魂の任務と使命は、感性からくる内外の害悪からのがれ、肉体的なものの影響から自己を清め解放され、清浄で正しく、それによって神に似るように努めることであって、これを達成する道がすなわち哲学なのである。」(シュヴェーグラー西洋哲学史)
プラトンにとって哲学とは、変転する無常な感覚的世界に捕らわれず、肉体的な欲望から自己を解放し、清浄で正しく生きることによって神に似ることであったわけです。
これは正しく、仏教や老子の説く教えと一致することになります。

アリストテレスによるプラトンのイデア論批判

前回ではシュヴェーグラー西洋哲学史プラトンの弁証法を参考にしながらイデア論について書いてみましたが、私自身まだ全て納得したというわけではなく、判然としない部分を残しています。
個別の論理は理解できるものの、全体を通してとなると途端に矛盾が出てきます。
主張するところは分かるのですが、なぜそうなるのかが分かりません。
というわけで、ここでアリストテレスによるプラトンのイデア論批判を簡単にみてみます。
同じく哲学史のアリストテレス形而上学の項に次のような記述があります。
「プラトンのイデアは、永遠化された感覚物にすぎず、感覚的なものの存在および生成はイデアからは説明できない」ということですが、これはどういうことかというと、現象界の出来事は絶えず生成変化しているので、絶対的な実体とはいえません。
そこで、学の可能性を救うために不滅の実体であるイデアを考えつき、感覚的個物の本質としての普遍を見出して、これをイデアとしたのです。
と、そこまではきわめて正しかったのですが、しかし、かれがそのために見出したものは感覚的個物とあまり違いのないものでした。
違うのは個物に付加された「自体」という言葉だけです。
すなわち、人間とか馬というかわりに、人間自体とか馬自体と言われるだけの話です。
しかも、このイデアという普遍的概念を独立させて、個別的実体にまでしてしまったので、個物とイデアがお互いに分離して存在することとなったのです。
ですから、イデアは個物のうちになく、個物からはなれているのですから、イデアはそれを分有する個物の認識に少しも役に立たないのであり、個物の生成や運動に関係がないということになります。
要するにアリストテレスはイデアと個物との関係が曖昧であり、論理的に不整合であると指摘しているのです。
あくまで論理にこだわるアリストテレスにとっては不満であったのでしょう。
そこでアリストテレスは独自に新たな概念を持ち込むことになります。
質料と形相がそれです。
質料とは材料のことであり、形相とは本質ということですが、しかしその意味するところはそう簡単ではありません。
アリストテレスはまず原因ということに着目します。
一切の事物の根本的根拠としてのイデアという観点から、プラトンのイデアを問い直そうとしたのです。
もともとプラトンのイデアとはどういうものかというと、それは存在の本質であり、不滅なものであり、そして生成と運動の原因であったわけです。
アリストテレスはこの生成と運動の原因をさかのぼることによって、根本原因である不滅の本質にたどりつけると考えたのです。
近代科学でいえば存在の因果関係を調べるといったところです。
アリストテレスは存在の原因という概念を分類して以下の四つとしています。
・質料因 → 事物が何でできているか(材料)
・形相因 → そのものの実体(本質)
・運動因 → 運動や変化を引き起こす原因
・目的因 → それが目指しているもの
この内の運動因と目的因は形相因の中に含まれるとして、結局、存在の原因を質料因と形相因の二つとしています。
そしてさらに、質料因と形相因を論理的に説明して、デュナミスとエネルゲイアの関係を導き出します
それは以下のような関係になります。
・質料因 → デュナミス(可能態) → 潜在的には可能であるもの
・形相因 → エネルゲイア(現実態) → すでに生成したもの
ですから、世界の現象を可能態から現実態への生成のうちにみたわけです。
したがって、アリストテレスのイデアとは生成によって永遠に作り出されるものであり、できあがった存在ではなく、不断に産出される存在であったのです。
これに対してプラトンのイデアは、静止したものであり、生成と運動とに対立したものであり、そして自立的存在であったわけです。
しかし、これをみても分かるように、アリストテレスのイデアは最終的な絶対存在ではあり得ません。
不断に生成されるものが、究極の存在であるはずがないからです。
結局、アリストテレスは最終的な絶対存在を神としているのですが、これをデュナミスとエネルゲイアの関係から基礎づけようとします。
その要点は以下のようになります。
・運動の始原はエネルゲイア(形相)を本質とするものでなければならない。
・絶対に不滅なものは可能的ではなく、あくまで現実的である。
・エネルゲイア(形相)のみが永遠なものにふさわしい。
・永遠の存在は運動の絶対的始原であり、絶対的概念(純粋な本質)であり、絶対的目的(本源的な善)である。
・以上のような諸前提から次のような結論が導き出される。
それは一であり、不変不動であり、生命であり、叡智であり、その本質はエネルゲイアであり、思考の思考、すなわち絶対的な主観即客観である。
ということで、それがすなわち神ということですが、シュヴェーグラーによれば「アリストテレスは神と世界との関係を完全にそして整合的には規定していないのである」ということです。

以上ざっとアリストテレスの形相と質料の関係を見てきたわけですが、もちろんこれだけでははっきりしません。
もっと詳細に見ていかなければ真意は分かりませんが、今回はそれが本題ではないのでまた次の機会とします。
ただ、アリストテレスの形相と質料という考え方は現代人にとっては、それほど説得力のある考えとは言えないでしょう。
彼の宇宙論と同様に、これは一つの仮説であり、世界をどう見るかという一つの見方にすぎないのです。
プラトンのイデア論との関係でいえば、プラトンのイデアが形相に、善のイデアが神に置き換えられただけのように見えます。
違いといえば、質料という概念によって、世界の多様さと生成の根拠にしたこと、あるいは、デュナミスとエネルゲイアという概念によって、イデアと現象の世界との対立を克服したことといえるでしょう。

プラトンのイデア論(2)

前回でも指摘したように、プラトンのイデア論は論理的に明解であるとはいえません。
生成流転する現象界の背後にある真実在としてのイデアということですが、論理的に首尾一貫しているわけではなく、どこか曖昧な部分を残しています。
プラトンの弟子であるアリストテレスは、このイデア説の曖昧さを嫌って独自の論理を展開することになります。
「イデア説の批判から直接に、アリストテレスの体系の枢軸をなしている質料と形相という二つの根本規定が生まれてくる。」(シュヴェーグラー西洋哲学史)

ここでアリストテレスのイデア論批判に移る前に、いま一度プラトンのイデア説を詳細に見ていきます。
シュヴェーグラー西洋哲学史 第十四章 四のプラトンの弁証法という項目に、プラトンがイデア論に至ったいきさつが述べられています。
プラトンがパルメニデスやヘラクレイトスの影響を受けていることは前にも書きましたが、それだけではなくソフィストと呼ばれる人たちからも影響を受けています。
ソフィストとは金銭を受け取って弁論術や政治・法律などを教える教育家たちだそうです。
現在では授業料を取って教育するのは普通のことですが、当時ではあまり良い意味では呼んでいないようです。

プラトンはそのソフィストの一人であるプラタゴラスの感覚論に反論するかたちで、知識とは何かに論究しています。
プラタゴラスの感覚論とは、「全ての認識は知覚であり、両者は同一である」つまり我々が認識するものは全て、知覚や感覚を通したものということです。
これに対してプラトンは精細に反論していますが、要点は「全ての認識が必ずしも感官のはたらきによって媒介されたものではなく、そのほかに精神的な諸機能をも前提している」ということ。
すなわち、我々の認識を構成しているのは、知覚や感覚からだけではなく、我々自身の生得的な思考をも前提にしているということです。
また、知覚や感覚だけではなく、意見(表象)も知識(真の認識)と同一ではないといいます。
なぜなら、意見(表象)は弁論の術によって作られうるからです。
ここでプラトンは、真の知識は知覚や表象からではなく、生得的な思考によって得られるとしているのです。
「したがって、認識には二つの源泉があるわけであって、感覚と表象および理性的思考がそれである。感覚は不断に生成変化するもの、まったく瞬間的なものに関係する不確かな認識の源泉である。思考はこれに反して、発生も消滅もせず、常に自己同一な恒存的なものに関係する。」
つまり次のような関係になるといいます。
・感覚 知覚 表象 生成変化して存在しないもの → 臆見(憶測による意見)
・思考 理性 内的な魂 常に同一状態にある → 真の知識 → イデア
ですから、「真の知識は純粋でまったく内的な魂の作用から流れ出てくるのであり、事物を全くあるがままに、永遠の本質と不変の性質とのうちに見る。」のです。
したがって「知識とは真実在すなわちイデアに関する思考である。」といえます。

以上、真の知識についてですが、一応ここまででもイデアについての凡その見当がつきます。
しかしプラトンはさらにこれを思弁的に導き出そうとするのです。
ただ、ここが問題なのです。
これを思弁的に導き出そうとすることによって、逆に多くの矛盾を抱えることになったのだと私は思うのです。
真理を論理で導き出すことは不可能であり、象徴的な言葉で語る以外にないというのが私の考えです。
それはともかくとして、ここでプラトンが前提にしているのは、概念が全ての存在の根拠になっているということです。
「現象の世界は概念をその内容としてもつかぎりにおいてのみ存在しているのである」
我々の思考の内にある概念が全てであり、現象界は仮象であるということは、いわば唯心論のような考え方であるわけです。
しかしプラトンはそこまで徹底しているわけではなく、現象界との関係は曖昧なままです。
「二つの世界すなわち感覚界とイデア界とがどんな関係にあるかという問題となると、プラトンの答えは不十分でもあれば矛盾もしている。かれは概して事物のイデアへの関係を分有と呼び、事物を模像、映像と呼び、イデアを原型と呼んでいるが、これはきわめて不明確であって、アリストテレスがこのような表現を空虚な詩的比喩と名づけているのは当然である。」
「困難は、一方には生成および生成する領域の実在を認めながら、他方には不動で常に自己同一の実体であるイデアだけを現実的としていることから生まれる矛盾のうちにある。」
ということですが、ここで注意すべきことは、「一方には生成および生成する領域の実在を認めながら」とある部分です。
実はプラトンは非有(仮象)の存在を認めているのです。
これより前の、「イデア論の由来」という項目の中に次のような解説があります。
プラトンの書いた「ソフィステス」の目的は「仮象すなわち非有の実在性を確認し、有と非有との関係を思弁的に論究することにあるのである。エレア学派(パルメニデスの説)の教えは、あらゆる感覚的認識をしりぞけ、われわれが知覚すると信じている事物の多や流動を仮象とすることをもって終わっていた。この場合、非有を全く否定しながら、しかもそれが人間の表象のうちに存在することを認めているのは明らかに矛盾である。」ということです。
ここでプラトンは弁証法的にパルメニデスの説を批判しているわけですが、しかし後にアリストテレスによって、同じ論法で批判されることになります。
それはひとまずおいて、プラトンの弁証法を見てみましょう。
「プラトンは以上のように非有の実在を確定してから、有と非有との関係、すなわち概念一般について結合および分離の関係を研究している。」
そして、次のような結論を導き出しています。
「有がなければ非有はなく、非有がなければ有はない。」
これは概念の相互依存関係を言ったものですが、有も非有もたがいに対立する概念の上になりたっているということです。
全ての概念は単独にあるのではなく、何らかの仕方で相互に関連し合っているという考え方は、プラトンだけではなく、比較的ポピュラーな考え方です。
たとえば、仏教の「縁起」にもありますし、「荘子」でもでてきます。
ただ、プラトンはパルメニデスの存在論を引き継ぐかたちで、有と非有の関係を問題にしていることと、思考や理性をよりどころにし、弁証法で明らかにしようとする点では違います。
ここで話がちょっと逸れますが、私見をはさめば、この「思考や理性をよりどころにし、弁証法で明らかにしようとする」という態度こそは西欧哲学を貫いている方法論といえるのではないでしょうか。
「存在とは思惟することである」と言ったパルメニデスを筆頭に、「徳は知識である」としたソクラテス、そしてプラトン、アリストテレスはもとより、近代哲学に至るまでその底流にあるのは、この人間の知性への信頼、信仰であったわけです。
そして、これこそが現在のこころの閉塞状態を齎した原因になっているというのが私の考えです。
それについてはまた後ほど書くとして、次にプラトンは有と非有との関係を一と多という言葉に置き換えています。
「非有とは考えることも、言い表すこともできないものであるが、我々がそれについて語る場合、非有が存在しかつ多であるとせざるをえないからである。」
ということで、有も非有も我々に概念としてある以上、それは存在しているという前提のもとに、有を非有の統一として一であり、非有すなわち現象の多様さをもって多としているわけです。
そしてそれは次のような関係になります。
・有 → 非有(現象)の統一としての一 → イデア
・非有(現象) → 現象の多様さをもって多
「したがってプラトンは一と多との弁証法のうちでイデアと現象界との弁証法を述べようとしているのであり、言い換えれば現象の多様のうちにある統一としてのイデアにかんする正しい見解を弁証法的に規定しうちたてようとしている」のです。

さて、プラトンは以上のような考え方こそ、パルメニデスの真の教えだと確信したのですが、もちろんエレア学派の意見とは正反対になっています。

つづきは次回で。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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