生死の超克

前回も書いた通り、私の人生論の主題は「生死の超克」です。
「もし死がなかったら哲学は生まれなかっただろう」とショウペンハウエルも言っていますが、正に死こそは人生最大の謎です。
死という現実の前にはそれまでの人生観が一変することもありえます。
この世界には多くの謎があります。
「時間に始まりがあるのだろうか」
「宇宙の果てに何が在るのだろう」
「生命は何時誕生したのだろう」
「そもそも世界は何故存在しているのか」
等々、探せばいくらでもあるでしょう。
しかしこれらの問題は確かに謎ではありますが、それが解けないからといって普段の生活に支障をきたすようなことはありません。
これらは知的好奇心の範囲内だからです。
ところが死だけはそうはいきません。
死の問題に取りつかれると、生活が停止するどころか、破滅さえしかねないのです。
人間の根幹に関わる問題だからです。
知的好奇心の範囲内の問題であれば科学に問うても差しつかえないでしょう。
まともな解答を得られないにしても、それほど害にはならないでしょうから。
しかし、死の問題を科学に求めるのはよした方がいいでしょう。
まともな解答を得られないだけではなく、迷いをさらに深刻にするからです。
科学は人間が生きるための道具にすぎず、生きる意味まで教えてくれません。
たとえば、どんなに高性能の車でも目的地までは教えてくれないのと同様です。
当たり前のことですが、目的地を決めるのは自分です。
科学的な見方とは物事を客観的に把握することであり、そしてその立脚地は唯物論です。
一方、死の問題は心の問題、すなわち内面的、主観的な領域の話となります。
したがって個人の内面の問題ですから、個人によって考え方に違いがあり、必ずしも同じ結論に達するとは限りません。
科学が扱わないのは当然でしょう。


さて、唯物論の話が出たついでに唯物論と唯心論について考えてみます。
唯物論とは心(精神)などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方であり、唯心論とは 心が究極的な真実在であるとする存在論や世界観上の立場である(認識論上では観念論と呼ぶ)ということです 。
世界が物質から成っているという考えは、ごく自然な考え方であり間違っているとは思えません。
我々の心でさえ、脳の働きで説明できます。
科学はもちろん、一般の人でもこのような考えは支持するでしょう。
一方、世界はすべて心の働きであるとする考え方は、どう見ても不自然です。
現実のこのリアルな世界がすべて私の心が作り出したとはとても思えません。
ではなぜこんな考え方が出てきたのでしょう。
私は唯心論が出てきた背景には「生死の超克」があると思っています。
唯心論を唱えた代表的な人はプラトン、プロティノス、アウグスティヌス、ライプニッツ、ショウペンハウエル、それにキリスト教などですが、いづれも人間の生死を見つめてきた人たちです。
また仏教にも唯心論とはちょっと違いますが、唯識論があります。
人生の矛盾を乗り越えようとするならば、どうしても人間の心に焦点を当てざるをえないのでしょう。
それに論理的に見てもあながち荒唐無稽とはいえません。
唯心論ということは、ただ心のみが在るということですが、確かに、認識する人がいなければ世界は存在しません。
たとえば人類が全て死に絶えたとしたら、それでも世界は存在しているでしょうか。
存在しているとしても、いったい誰がそれを確認するのでしょう。
もっと身近な例で言えば、我々は毎晩眠りに就きますが、もちろん寝ている間は意識はありません。
寝ている間は世界は存在していないのです。
かわりに夢を観ますが、その夢が現実世界ということになります。
目覚めて始めて夢だと気づきますが、そのまま目覚めないこともありえますので、そのときは夢のまま終わることになります。
また、人は何れ死を迎えますが、自分の死と共に世界が消滅すると考える人はあまりいないでしょう。
消滅するならば生命保険などはいらないわけですから。
ただし自分の死後も世界は確実に存在しているとは断言できません。
確認しようとしても、確認しようとする本人が存在していないのですから。
ただ生存中に多くの人の死を観ていますので、自分の死も他の人と同様であろうと類推しているわけです。
しかし自分の死と他の人の死は全く同じではありません。
他の人が死んでも世界は存続しているのですが、自分の死は自分にとって世界の終りを意味します。
しかも死自体がいかなるものかもはっきりしないのです。
他人の死は観察できますが、自分の死は視ることができません。
視ようとしても自分はいないのですから。


さて、目を転じて宇宙に向けますと、さらなる不可解にそうぐうします。
現代科学では宇宙の始まりはビックバンであるとしていますが、ではその前には何が在ったのでしょうか。
ビックバンによって時間と空間ができたとするならば、その前は時間も空間もない、すなわち無ということになります。
無から突如として宇宙が始まったわけです。
また、ビックバンによって宇宙ができたとするならば、ではその外側には何が在るのでしょうか。
これも当然無ということになるでしょう。
なんのことはない、我々が認識できないもの、思考の及ばないものはすべて無なのです。
であるならば、世界とは我々が認識できる範囲内の事象ということになり、「世界は我が表象である」と言ったショウペンハウエルの言葉そのものということになります。


というわけで唯物論も唯心論もそれぞれもっともな話ですが、かと言ってどちらが正しいとも言えません。
どちらも正しいし、どちらも間違いでもあるわけです。
同じものを見ていても、見る方向によって、あるいは焦点の当て方によって違ったものに見えます。
主観の無い客観はありえず、客観の無い主観もありえません。
もしあるとしても、どちらに力点を置くかの違いだけです。
唯物論も唯心論もそれぞれ相互に依存し合った議論といえるでしょう。
ちなみに仏教の唯識論では、その識(心の作用)も仮のものであるとして最終的に否定します。


つづく



久々の更新

久々の更新となります。
前回までシュヴェーグラーの「西洋哲学史」からギリシャ哲学を中心に見てきたのですが、といっても前回よりだいぶ間がありましたのでどこまで書いたのかすぐには思い出せませんが、確かストア学派あたりまでいったと思います。
その後続きを書くつもりでいたのですが、あれやこれやと用事をたしているうちについつい遠ざかってしまいました。
というわけで、しばらく更新をしていなかったので、訪問者もいないであろうと思っていたところ、意外にも検索して下さる方が以前と変わらずいらっしゃるようです。
そろそろ削除しようと思っていたのですが、このまま削除してしまうのも気残りです。
それにいかにも中途半端な終わり方ですので、もう少し結論みたいなものを出してからとも思います。

さて、私にとって人生論とは「生死の超克」以外の何ものでもありません。
死は現実に確実にやって来る問題ですので、これを避けて通る訳にはいきません。
これをいかに受け入れるかが、さしせまった重要な問題であるわけです。
これをどのように考えたら理性が納得できるかということですが、今の常識的な考え方では、この問題を乗り越えることは出来そうにもありません。
今は科学的な見方が常識になっていますが、こと死の問題に関しては科学はあまり役に立たないようです。
科学は現象の研究に限られているので、人間の心の問題に対しては無力です。
また、哲学といわれるものも、確かにこの問題を研究の対象にしてはいるのでしょうが、未だに納得できる結論を出しているとは思えません。
現代は情報化社会などといわれ、日々多くの情報が飛び交っていますが、なぜかこの問題を避けて通るようです。
関心がないわけではないでしょうが、あまりにも問題が大きすぎて容易に語ることなど出来ないのかも知れません。
それに怖いということもあるでしょう。
この問題は非常に神経の緊張を強いるので、出来れば眼を塞いで避けて通りたいところです。
しかし非情にもこの問題は厳として立ち塞がっているのです。
ソクラテスも言っているとおり「死を恐れることは恥ずべきことである」ということですので、ここは逃げずに敢然として立ち向かうべきではあるのですが、いかにせんむずかしい。
私が五十年近く考えてこの程度ですから。

というわけで、この問題を現代の知識に求めても無理ですので、やはりここは過去の偉大な賢人にすがる以外にはないでしょう。
よけいな知識に覆われている現代人は、自分の心を純粋に見通す能力を失ってしまったかのようです。
過去の偉大な先人たちの言葉が新鮮な響きとして聞こえてくるのは私だけでしょうか。


汎神論

前回、ストア学派は汎神論であるということを書きましたが、汎神論という言葉自体は後世の造語だそうで、この時代ではそういった意識はなかったと思われます。
「汎神論(はんしんろん)とは、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場である。」(ウィキペディア)
ということですが、我々自身、自然から生まれ、自然に帰っていくわけですから、自然こそ我々の母胎であり、本源であるとするのは自然な考え方でしょう。
ですから、汎神論という考え方はほとんどの哲学や宗教にも多かれ少なかれあります。
老子の「万物復帰」や「無為自然」などはもちろん、仏教の「山川草木悉皆成仏」などもそのような考え方の表れといえるでしょう。
「自然の中に神が宿っている」というような素朴な意味での汎神論であるならば、我々は違和感なく受け入れることができます。
しかし厳密に「この世は神の顕現である」あるいは「神と自然とは同一である」とするならば、かなり矛盾する部分が出てくることになります。
最大の矛盾はこの世の悪を説明できないことです。
もし人在って、何の先入観もなく、純粋に客観的に、公平にこの世界を分析するならば、この世界は悪であると断定するでしょう。
自然による災害はもちろんのこと、人為的と思われていた災害ですらその背後に自然の意志があるかもしれないのです。
人間を突き動かしているのは衝動であり欲望ですが、それこそ自然の意志でなくして何でしょうか。
そもそも人間の存在自体が衝動と欲望の産物であり、決して理性や知性の賜物ではないのです。
人間は生まれながらにして、生存競争に生き残るように仕向けられており、敵を倒しその肉を食う野獣と変わるところがありません。
人は人にとって狼であり、最大の害悪は人災なのです。
正にこの世は悪に満ち満ちており、神の顕現どころか悪魔の顕現としたほうがふさわしいでしょう。
というわけで、当然ながら自然と神の概念は矛盾します。

ストア学派の汎神論というのは、おそらく厳密な意味での汎神論ではないでしょう。
ただ漠然と「神=自然=善」と考えていたのではないでしょうか。
始めに書いたように、このような考え方は素朴に見れば自然であり、間違っているとは思えません。
我々の心の中には善なる意志が確かにあるにはあるのですから。
我々も自然の一部である以上、自然の中に善があると見なければなりません。
また、神という概念自体が我々の善なる心の要請によって在るのですから、当然究極の善であり、善以外のなにものでもないわけです。
であるならば、我々が善なる心で見る限り、神と自然は同一となり得ます。
善も悪も我々の心の中にある我々の見方にすぎないからです。
自然はあくまで無記であり、それを善とするか悪とするかはその人の見方の相違ということになります。
仏教ではこの世を悪と見、そこからの解脱を目指しています。
キリスト教ではよく分かりませんが、おそらくこの世からの救済としての神への信仰ということでしょう。
一方、素直にこの世を善と見れる人は幸せな人かもしれません。

結局、汎神論という問題もこの種の多くの問題と同様に結着のつかない問題ですが、はっきりしていることは、我々はこの自然以外には何も知らないのであり、この自然を立脚地とする以外にはないということです。
その中に善もあり悪もあり、救いも解脱もあるわけです。
ですから神が存在するとすれば、それは間違いなく自然のなかでしょう。

アリストテレス以降の哲学

あまり人気があるとは言えないこのブログですが、それでも拍手して下さる方もいらっしゃるようで、まことにありがたいことです。
前回の記事にも拍手が入っていました。
このブログではひさびさの拍手ですが、悪戦苦闘して書いたプラトンのイデア論についてではなく、つなぎに書いた思いつきの雑文に拍手があったという皮肉な結果ではありましたが、とにかく私の考えに賛同してくれる人がいるのはうれしいことです。
本来、人生問題はどのように考えようと自由ですが、やはり社会の一員としては社会に貢献し、常識をわきまえ、正義を愛し、悪を憎むという考えが正論であるのはいうまでもありません。
しかし、これはあくまで社会生活をおくるうえでのモラルであって、人生の根本問題の解決ではありません。
人生における最大の問題である人間の生死に関してはまた別の哲学が必要になってくるでしょう。
聖人君子への道を説いた孔子は、死について「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」といいました。
これはこれで一つの見識には違いありませんが、この答えで納得できる人は少ないでしょう。
老子はこの問題を正面から捉え、万物復帰の考えを示しました。
また、荘子は老子の考えを引き継ぎ、万物斉同の説を唱えました。
老子の万物復帰については以前に書きましたので、荘子の万物斉同について見てみましょう。
「荘子は認識論の立場から、知識のもつ相対性を明らかにし、これによって知識を根本的に否定しようとする。知識という人為を加えないありのままの世界、自然の世界では、あらゆる対立差別は消失し、すべてが斉しく、すべてが同じい、というのが万物斉同の説である。」(森三樹三郎 老荘と仏教)
ということですが、ではなぜ知識を持つことが悪いのかと言えば、知識を持つことによってそれに捉われるからです。
知識とは分別を意味しますが、本来一体であるべき万物を分けて、それぞれに概念をあてはめ、それに固着するということです。
しかし、万物は流動していますので、それに捉われることによって苦が生じることになります。
たとえば、生に執着することによって、死が恐ろしいものになります。
本来、生死は一体のものであり、生もよし、死もよし、と見なければなりません。
「もし、万物斉同の立場にたつことができれば、これらの貧富窮達、善悪美醜の対立は、跡形もなく消え去り、すべてはひとしく、すべてはあるがままにてよし、とする運命肯定の境地に達することができるはずである。生と死の対立もまた、その例外ではない。」(同 老荘と仏教)
とはいえ、その境地に達するのは至難の業です。
なかなか理屈どおりには心の方は動いてくれません。
そこで観法とか行が必要になるわけですが、残念ながら荘子にはそれについての言及はありません。
「この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい。」(同 老荘と仏教)
というわけで、その後の中国の思想史では仏教が主流となっていきます。

さて、同じような展開はギリシャ哲学にも見られます。
ギリシャ哲学といえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが代表であり、そこで一つの山を形成していて、それ以後の哲学はあまり重要視されていません。
シュヴェーグラーの西洋哲学史にも「アリストテレスとともにギリシャ哲学の生産力はつきた」とあります。
そして、それ以降の哲学は学問的関心も政治的関心も失うようになり、もっぱら個人の実践に関心が向けられるようになったといいます。
ですから、哲学の役割は、心の不安を取り除く確実な認識を与えることであり、存在の究極の根拠を説明することであり、そして、どう対処すべきかを教えることにあるとされた。
したがって、客観的な認識に重きをおかず、主観的な真理だけを求める一面的な独断論となっている。
ということですが、確かに学問としての哲学という意味では後退かもしれません。
しかし哲学本来の意義は、人間の生死の不安を除き、真の幸福を齎すために、人生いかに生きるべきかを教えることではないでしょうか。
だとするならば、人間の現実的な問題に関心が移るのは至極当然であるといえるでしょう。
哲学の領域が、宗教と科学をまたいでいるとすれば、より宗教的な問題を扱うようになったということかもしれません。
宗教も科学もその根底を支える考えは哲学的にならざるを得ないからです。

では、アリストテレス以降の哲学にはどのようなものがあるのか、これも同哲学史でみていくことにしましょう。
アリストテレス以降の時期のもっとも重要な哲学説は、ストア主義であるといいます。
ストイックという言葉でも知られているとおり、ストア学派は倫理に重点をおいています。
自然学や論理学を扱う際にも倫理が基本になっています。
人生においていかに生きるべきかという問題は、現実に差し迫った問題であり、最も重要な問題でもあります。
そしてこれを倫理道徳に求めるのも自然であり、これに異論を差し挟む人はいないでしょう。
問題はそこに至る論理の方です。
ストア学派の自然学の特徴は唯物論であるということです。
といっても現代科学のような唯物論的な見方ではなく、この世界を神と見る汎神論なのです。
この汎神論という考え方には、私も今まで幾度となく惹かれました。
神は天上のかなたにいるのではなく、現実のこの世界が神そのものであるという見方は、世界を整合的に説明しているように思えます。
世界が現に在る以上、それを成り立たしめている原因なり根拠があると考えるのは自然な考えです。
そこで神という概念をこれに充てるわけですが、この神はこの世界と別なものではなく、この世界が神の顕現であるとするのが汎神論であるわけです。
しかしここで問題が生じるのです。

この問題についてはまた次回にします。

雑感

前回まで数回にわたってプラトンのイデア論を中心に、ギリシャ哲学を見てきたわけですが、人生の根本問題に関する議論は、すでに古代において出尽くしているのではないかと思えるほどその核心に迫っています。
昨今の本などを見ると、言葉は多いが内容は薄っぺらいというのが大方のところです。
こうしてみると、哲学に限っては時代と共に進化するとはいえません。
よけいな雑念がないということでは、現代人よりもより深く純粋に、こころと直面していたということかもしれません。
それはギリシャ哲学に限らず、老子や仏教にもあてはまります。
それぞれの教えも、祖師といわれている人たちを超えていないのです。

カントは人間存在を英知界(物自体界)と感性界(現象界)の両方にまたがっているとしました。
感性界(現象界)は時間と空間に制約された世界であり、したがって自然因果の支配下にあり、進歩も退歩もあるわけですが、一方、英知界(物自体界)は時間も空間もないのであって、因果律に縛られない真の自由があるということです。
私はこれを科学と哲学にあてはめて、科学は感性界(現象界)の学問であり、哲学は英知界(物自体界)の学問であると思っています。
ですから、哲学とは時代によって進歩するものではなく、それぞれの教えはその時点で完成されたものであるというわけです。

さて、今回は本業の方がいそがしく、なかなかまとまったものが書けませんでしたので、また次回とします。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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