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真実の世界

「真理とは心によって覚知すべきものであって、論理によって到達することはできない」というのが私の見方です。
カント哲学はこのような見方の同一線上にあると思います。
カントは純粋理性批判で失ったものを、実践理性批判で取り返しますが、それは「理論の領域で達成できなかった、自由、不死、神の理念を実践の世界において、まったく直接的な、内在的な仕方で、その確実さと真理を証明する」というものです。
しかしこれは当然の話であって、相対的な論理をいくら積み重ねたところで絶対的なものは出てきません。
出てくるのは相対的概念だけす。
そもそも認識するということは、識別することであり、分別することですから、相対的になるのは当然のことです。
逆に言えば、相対的でないものは認識できないのです。
絶対的という言葉すら相対的概念です。
この様に我々の意識は相対的概念の外に出ることはできません。
従って、これは我々は生きている限り、迷いから脱却出来ないということを意味します。
迷いから脱却した状態とは、我々の意識から言えば、意識の消滅した状態、即ち死です。
死は無であるどころか、死こそ真実の世界というわけです。
死は意識という迷妄から解き放された真実絶対の世界なのです。
なぜなら、人間の意識が作り出した時間も空間も、生も死も、幸福も不幸もなく、あらゆる幻影が消滅し、絶対的な存在のみがあるからです。

ここで絶対的な存在があると言いましたが、ではなぜそう言えるのでしょうか。
それは、我々が現に存在しているからです。
厳密に言えば、絶対的な存在があると類推しているにすぎないのですが、我々が整合的であろうとするならば、我々の存在が何の根拠もなく存在しているとは考えられないということです。
もし絶対的存在がないとするならば、あらゆる議論は意味をなさず、世界は夢幻となり、陽炎のように実体のないものとなるでしょう。
というわけで、実は、生も死も我々が作り出した幻影であり、実際にはただ一つ真実の世界があるのみ、というわけです。

さて、真実の世界はむろん死後にあるわけではありません。
今現にあるもの以外は全て人間の想像だからです。
今現にあるものだけが真実在です。
人間の思考という夾雑物を全て取り除いた状態が真実の世界ということになります。
しかし残念ながら、これは人間の思考で捉えることができません。
たとえば、汚れた雑巾でいくら拭いてもきれいにならないのと同じです。
ではどうしたらよいのでしょう。
前述のカントのように「まったく直接的な、内在的な仕方で、その確実さと真理を証明する」ということでしょうか。
私はここで適切ではないかもしれませんが、ほかに言葉が見当たりませんので、とりあえず「心の世界」という言葉を用いれば、正に「心の世界」での覚知だろうと思います。
この「心の世界」は人間の悟性とは別次元の論理の及ばない領域であり、この世界のみが真実在であるわけです。

そういう意味では、カントが人間の能力を「理論」と「実践」とに分けたのは正しいと言えるでしょう。
私に言わせれば、カントの「物自体」こそ真実の世界であり、「実践」即ち「心の世界」においてのみ、「物自体」即ち「真実の世界」に到達し得るということです。
ちなみに、禅語に「冷暖自知」という教えがあるそうです。

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カント以降

シュヴェーグラーの哲学史ではヤコービの次にフィヒテ、シェリング、ヘーゲルと続くのですが、私の関心はフィヒテ位までで、後はそれほど興味がありません。
ところが、シュヴェーグラー自身はヘーゲル学派に属しているということですので、この三人については比較的多くページを割いているようです。
私がなぜ興味がないかと言えば、この人たち以降は哲学があまりにも専門的になりすぎて、哲学のための哲学というか、学問としての哲学、要するに実際の人生問題とかけ離れた論理学だからです。
西洋哲学では伝統的に論理学としての側面があり、アリストテレス以来、近代哲学の祖といわれるデカルトを始めとして、スピノザ、カント、フィヒテなどにもそのような傾向があります。
これらの論理学としての哲学はヤコービが批判した当のものであって、「反省を事とする悟性しか認めない哲学はすべて、結局なにごとも認識できないことを認めざるをえない。その終局はニヒリズムである。」ということで、事実それ以降西洋哲学は大した成果も上げずに今日に至っています。

確かに、幾何学的論理によって、世界が余すところなく説明できたとしたら、素晴らしいことには違いありませんが、事実はそうなっていないのです。
有限なる言語によって、無限なる真理を捉えることはできません。
人類はもうそろそろこの事実に気が付いてもよさそうなものですが、驚くことに言語だけでは飽き足らず、今度は数字や記号によって捉えようとしています。
数字や記号、計算などは日常生活を送るために必要に迫られて考え出された道具にすぎません。
社会生活が複雑化している現代においては数式は必要不可欠であることは確かですが、だからと言って数式ですべてが言い表せるわけではありません。
数式による答えは数式です。
数式は現象界の出来事を数字や記号に置き換えているだけであって、魔法ではないのです。

もっとも、アインシュタインのE = mc2 と言う関係式を美しいと表現している人もいるくらいですから、数式の信者も多いは確かなようです。
私も若いころは、相対性理論などにも興味があって、入門書などをよく読んだりしましたが、読むと必ずと言っていいほど出てくる言葉があります。
それは「相対性理論を数式を用いず、言葉だけで説明するのは難しいと」ということです。
しかし考えてみれば当然の話で、「物理学とは、自然界のさまざまな現象や法則を数式化する学問であり、言い換えると、物理学は数式という言葉で自然現象を説明するものなのです。」(相対性理論を楽しむ本 佐藤勝彦監修)というわけで、確かに自然現象を数字で表せば、自然現象を全て整合的に捉えることができるかもしれません。
もともと数学とは整合的になるようにつくられているのですから。
ただしそれは数学の中だけの話であって、現実の世界そのままではありません。
人間が頭の中で作り上げた仮構の世界というわけです。
もっとも人生の根本問題の解決を数学に求める人はいないでしょうが。

さて以上のような点についてヤコービは次のように述べています。
「悟性は概念から概念の概念を生み出して次第に理念にまでのぼって行きながら、そのような感覚を超えた単なる論理的幻想をもって、感性界と自分自身を真に超越し、直観に依存せぬ高次の学(超感性的なものの学)に到達する能力があるどころか、この上もなく明白な使命をもっているのだ、という妄想を抱きやすい。
このような誤謬と自己欺瞞とをカントは暴露し破壊した。このことによって、はじめて少なくとも真の理性論をうちたてる空地が得られたのである。
これがカントの真に偉大な行為であり、不滅の功績である。しかもこの賢者の健全な理解力は、もし神がそこに降り立たなかったら、この空地は直ちに真なるもののあらゆる認識を吞みこむ深淵とならざるをえなかったろう、ということをかれに認識させた。ここにカントの教えと私のそれとの一致するところがある。」
ということですが、要するに、我々の理性の任務は理性の限界を知ることであり、その先に神の降り立つ空地をつくることである、ということだと思います。
ただその空地に何を置くかは意見の分かれるところですが。

ヤコービ(2)

ヤコービは哲学を否定して、その解決を信仰に求めるのですが、彼の言う信仰とは盲目的な権威信仰ではなく、あくまで理性に立脚した理性信仰であるわけです。
それは勝手な想像ではなく、主体自身のもっとも内奥の要求にもとづものであって、これは信仰と呼ぶよりほかに名づけようのないものであると言います。
彼の言う「理性的信仰」あるいは「理性的直観」などともいっていますが、それは悟性に対立する機関であって、現象の中および上にある真理が、感性や悟性には理解できないような仕方でそれに開かれる、一つのより高い能力であるとしています。
そして、これを「理性的直観」という表現を用いるのは、ほかに適当な言葉がなく、感性の到達することのできないことがらが、あふれるばかりの感情のうちにとらえられる仕方を示すに、言語は他の表現をもっていないからであるということです。
要するに、厳密な論証を事とするあらゆる哲学的思考では無限なものに到達することはできないのであって、有限な論理の輪の中を循環するに過ぎない人間の意識から脱却するには、ヤコービの言葉でいえば「人間理性の離れ技」である信仰をもってする以外にはないということでしょう。

ところで、われわれはなぜ神を求めるのでしょう。
それは心の拠りどころを欲しているからではないでしょうか。
考えてみれば、この世には絶対確実なものなど何一つありません。
私の身体は何れ消滅するし、愛する家族も友人も同様です。
しかも、われわれの住むこの地球ですら人間の住める環境でなくなりつつあります。
むろんこれは人間が自ら招いた結果ですが、もう後戻りはできないところまできています。
人類が営々として築き上げてきた文明を環境破壊によって、自らの手で葬り去ろうとしているのです。
今からでも人類が一丸となって、この問題に取り組めば、あるいは軌道修正出来るかも知れません。
しかし、私はこの問題については悲観的です。
先の世界大戦においても、戦争への突入を誰一人として止めることはできませんでした。
戦争が悪であるということは、誰しもが認めていることですが、でも他国から攻められたら戦うか降伏するか以外に選択肢はないのですから、勇気のある者なら当然戦うでしょう。
戦争反対を叫べるのは、平和な時だけです。
しかも、その平和とは力の均衡によって、辛うじて成り立っているにすぎません。
人間は本来、動物であり、一皮剥けば猛獣と変わらないからです。
はっきり言って、人間である限り動物的欲望を持たない人はいません。
もし居たとしたら、その人は人間ではなく神でしょう。

こうしてみると、人類は不可避的に破滅への道を突き進んでいるように見えます。
しかしこれは人類の進歩の必然的な結末であるかもしれないのです。
われわれは科学の進歩によって人間が幸福になると信じていましたが、それは幻想にすぎず、実は自分の墓穴を掘っていたのかもしれないのです。
進歩によって人類が豊かになったのは確かですが、豊になる代償は大きかったわけです。
人類は自分の寿命を縮めることによって、豊かさを手にいれたのです。

さて、話がだいぶ暗くなってきましたが、私が言いたいのはこの世には何一つ心の拠りどころとなるものはないということです。
ただし、それは人間が動物的存在である限りということです。
人間が動物的存在であることは間違いないのですが、一方において人間は精神的な存在でもあります。
人間が動物的存在であるのみであれば、何の矛盾も生じないでしょう。
他の動物と同じだから。
人間が動物的存在であると同時に精神的な存在であるからこそ矛盾が生じるのです。
その矛盾を指摘するのは精神的な存在としての自分です。
しかし、話はさらに込み入ってきますが、人間の知性は動物的存在に奉仕するようにできています。
人間の脳は動物的な部分ですから。
動物的存在に奉仕するはずの知性が、動物的存在を否定するのはおかしいです。
実は動物的存在を否定するのは、知性ではなくさらにその内奥の声、世界の根源より来る意志であるわけです。
人間は一個の肉体を有する動物ですが、同時に宇宙万物の一部でもあります。
つまり、自己の肉体に対する愛から宇宙万物に対する愛に変えよという声です。
とは言え、動物的な本能も宇宙万物の意思に変わりはないわけですから、これを否定するのではなく、あくまで重点を移せということだと思います。
個別的な生存である限り、生と死、そして破滅があるわけですが、一たび世界の本源に目を向けるならば、そこには永遠不滅の実体としての世界があるのみです。
結局、人間の知性は個人の意思よりも宇宙万物としての意思を優先すべきことを悟るのです。
なぜならば、其処にこそ平安を見出すからです。

さて、このような説明も一つの仮説にすぎませんが、ある程度こころの整理に役に立つのではないでしょうか。

ヤコービ

カント哲学は基本的には正しいと私は思っています。
ただ人生問題に対するアプローチの仕方が私とは少々異なるようです。。
私はむしろ、哲学史(シュヴェーグラー)でカントの次に出てくるヤコービに共感を覚えます。
ヤコービという人については、私はよく知りませんが、カントとほぼ同時代のドイツの思想家ということです。
日本でもその著作についてはほとんど知られていないので、私もこの哲学史の簡単な解説とウィキペディアの記事で知るのみです。
にもかかわらず、私はこの人の考え方をほぼ推察することができます。
なぜなら私の思っていることと同じだからです。

ヤコービは神を論理的に導き出すことは出来ないと言って、スピノザ主義を批判しています。
スピノザはご存知のように幾何学的手法で神を論証しようとした人です。
「ヤコービはスピノザ主義は宿命論であり無神論であると言い、哲学的論証の道はすべて宿命論および無神論へ導くとし、もしこれにおちいるまいと思えば、われわれは論証の限界を認め、人間のあらゆる認識のエレメントが信仰であることを承認しなければならない。」(哲学史)
もちろん、スピノザ自身は清廉潔白な人であり、真剣に神を求めていたのは言うまでもないのですが、神を論理的に導き出そうとしたのは誤りであると言わざるを得ないでしょう。
「もし哲学が有限な悟性をもって無限ををとらえようと思えば、それは神的なものを有限なものにまで引下げなければならない。」
「論証できるような神は神ではない。なぜなら論証の根拠は常に論証されるべきものの上にあり、後者は前者からその実在性を与えられるからである。もし神の存在が証明されなければならないとしたら、神は神よりも前かつ上にある根拠から導き出さなければならないであろう。」(哲学史)
世界の究極根拠を求めても、それを実証するにはさらに上の根拠を必要とするということでしょう。

というわけで、哲学が哲学である限り、スピノザ主義にならざるを得ないのであり、制約しながらしかも制約されたものの鎖のうちを回っているだけということになります。
そういう意味ではカントが「人間が認識できるのは現象のみであり、物自体には及ばない」としていることと相通ずるかもしれません。
カントは物自体を神とは言っていませんが、それに近い意味合いを持たせているのは事実です。
カントは「人間は英知界(物自体界)と感性界(現象界)の両方にまたがって存在している」と言っていますが、この英知界、すなわち物自体の世界では時間・空間の支配を免れた自由があると言っています。
(先なる出来事のない、第一の始めをカントは自由と呼んでいる)

哲学史ではヤコービはカント哲学の反対者という位置づけですが、必ずしも全て反対しているわけではなく、部分的な反対というのが正しいでしょう。
ヤコービはカント哲学というよりも、哲学自体を批判しているのであって、「反省を事とする悟性しか認めない哲学はすべて、結局なにごとも認識できないことを認めざるをえない。その終局はニヒリズムである。」(哲学史)ということです。

そこで選び取られる道が「非哲学」ということですが、以下は次回に。

日常の雑事

日常の雑事に追われてしばらく更新していませんでしたが、ここへ来てやや落ち着いてきたというところです。
高邁な思想も現実の差し迫った問題の前には後に引かざるを得ないというわけですが、「哲学・思想は暇人のすること」と誰かが言っているように、確かに現実に追われている人間には用はない話かもしれません。
大方の人はこの様な問題に深く関わることもなく一生を終えていくことでしょう。
とは言え、人間存在の根幹に関わる問題ですから、放っておくわけにもいきませんし、いづれ決着をつけなければならない場面があるでしょう
世にはその道の専門家と称する人もいるようですが、その実、金銭目的や名前を売るのが目的であったりします。
つまらない教えに引っかかって身を滅ぼすことのないように、ここはやはり自分で納得のいく答えを見出す以外にはないでしょう。

さて、カント哲学について書いていたのですが、しばらく間をおいていたので、どこまで書いたのか忘れてしまいました。
気ままなブログですのでその点はご容赦願いまして、道筋が見えてくるまで思いつくまま書いていくとしましょう。
「富士山は遠くから見てこそ美しい」と言われますが、カント哲学も同様に解説書を読む程度で止めておいた方が良かったのかもしれません。
純粋理性批判(篠田英雄訳)を途中まで読み進んだところですが、読むというより解読という感じです。
意味不明な部分が確かに多いのですが、意味の分かるところから類推してみるとそれほどのことを言っているのでもないようです。
それに、全編を通して同じことを言っているような気がします。
カントは客観的根拠という言葉を頻りに使います。
客観的根拠、あるいは客観的実在性などとも言っていますが、要するに経験による事実によって保証されたということでしょうか。
確かに、科学の世界でも、どんなにすぐれた論理も事実の前には沈黙せざるを得ないということで、事実に勝る確証はないわけです。
正に事実こそ、我々の立脚地であるわけですが、ただなぜそのような事実があるのかという問題にまでは深入りしないという前提ではありますが。

さて、カントは経験に裏打ちされていない論理は全て空論であるとして、その最たるものとして神の存在の論証をあげています。
神は見ることも聞くことも触ることもできませんし、論理的に導き出せるわけでもありません。
世界の原因をどんなに遡っても、神は出てこないのです。
結局カントは、神の存在論的証明をことごとく否定するのですが、神を求める人間のこころ自体は否定できなかったわけです。
神を求めるこころが事実として確実にあるならば、正しく客観的根拠たり得ると私は思うのですが。
むろん、人間のこころの要求としての事実ですから、現象界における客観的事実とは次元の異なる話ではあります。

ところで、カントは一方において人間が認識できるのは現象のみであり、物自体には及ばないとしています。
であるならば、カントが頻りに言っている客観的根拠なるものも現象にすぎないということになります。
現象の背後に在って、現象を成立せしめる実体がないとすれば、夢幻と変わりがないということになりますので、どうしても物自体を想定せざるを得ないわけです。
もちろんこれは想定であって、これ無しで済ませることもできます。
しかし論理的に整合性を保とうとするならば、いやでも想定せざるを得ないということです。
世界の原因をどんなに遡っても、究極の原因は出てこないと分かっていても、これを執拗の求めるのは、我々の根源的な欲求であるからかもしれません。

考えてみれば、「神は存在するか」という問い自体がナンセンスでしょう。
神が人間のこころの要請によって想定した概念とするならば、自分で想定したものを存在するかと問うことですから。
神とは人間の要請によって生じた概念だからといって、単なる空想の産物ではありません。
自分や世界が存在しているのと同程度に確かなことです。
なぜなら自分や世界の本質を神と言っているからです。
本来神という概念は非常に高度な概念であり、一般の人にはほとんど理解し難い概念です。
それを一般の人にも分かりやすく説かれたのが、現在我々が知っている神ということになります。
言わば透明人間に衣を着せたようなものです。
本来神とは言葉で言い表せない存在であり、それは「何々ではない」という否定的な表現しかできません。
なぜなら、言葉で表現した途端にそれは有限な存在になるからです。

さて、ここまで来ると問題が込み入ってきますので、それはまた次回にでも。

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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