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ヤコービ(2)

ヤコービは哲学を否定して、その解決を信仰に求めるのですが、彼の言う信仰とは盲目的な権威信仰ではなく、あくまで理性に立脚した理性信仰であるわけです。
それは勝手な想像ではなく、主体自身のもっとも内奥の要求にもとづものであって、これは信仰と呼ぶよりほかに名づけようのないものであると言います。
彼の言う「理性的信仰」あるいは「理性的直観」などともいっていますが、それは悟性に対立する機関であって、現象の中および上にある真理が、感性や悟性には理解できないような仕方でそれに開かれる、一つのより高い能力であるとしています。
そして、これを「理性的直観」という表現を用いるのは、ほかに適当な言葉がなく、感性の到達することのできないことがらが、あふれるばかりの感情のうちにとらえられる仕方を示すに、言語は他の表現をもっていないからであるということです。
要するに、厳密な論証を事とするあらゆる哲学的思考では無限なものに到達することはできないのであって、有限な論理の輪の中を循環するに過ぎない人間の意識から脱却するには、ヤコービの言葉でいえば「人間理性の離れ技」である信仰をもってする以外にはないということでしょう。

ところで、われわれはなぜ神を求めるのでしょう。
それは心の拠りどころを欲しているからではないでしょうか。
考えてみれば、この世には絶対確実なものなど何一つありません。
私の身体は何れ消滅するし、愛する家族も友人も同様です。
しかも、われわれの住むこの地球ですら人間の住める環境でなくなりつつあります。
むろんこれは人間が自ら招いた結果ですが、もう後戻りはできないところまできています。
人類が営々として築き上げてきた文明を環境破壊によって、自らの手で葬り去ろうとしているのです。
今からでも人類が一丸となって、この問題に取り組めば、あるいは軌道修正出来るかも知れません。
しかし、私はこの問題については悲観的です。
先の世界大戦においても、戦争への突入を誰一人として止めることはできませんでした。
戦争が悪であるということは、誰しもが認めていることですが、でも他国から攻められたら戦うか降伏するか以外に選択肢はないのですから、勇気のある者なら当然戦うでしょう。
戦争反対を叫べるのは、平和な時だけです。
しかも、その平和とは力の均衡によって、辛うじて成り立っているにすぎません。
人間は本来、動物であり、一皮剥けば猛獣と変わらないからです。
はっきり言って、人間である限り動物的欲望を持たない人はいません。
もし居たとしたら、その人は人間ではなく神でしょう。

こうしてみると、人類は不可避的に破滅への道を突き進んでいるように見えます。
しかしこれは人類の進歩の必然的な結末であるかもしれないのです。
われわれは科学の進歩によって人間が幸福になると信じていましたが、それは幻想にすぎず、実は自分の墓穴を掘っていたのかもしれないのです。
進歩によって人類が豊かになったのは確かですが、豊になる代償は大きかったわけです。
人類は自分の寿命を縮めることによって、豊かさを手にいれたのです。

さて、話がだいぶ暗くなってきましたが、私が言いたいのはこの世には何一つ心の拠りどころとなるものはないということです。
ただし、それは人間が動物的存在である限りということです。
人間が動物的存在であることは間違いないのですが、一方において人間は精神的な存在でもあります。
人間が動物的存在であるのみであれば、何の矛盾も生じないでしょう。
他の動物と同じだから。
人間が動物的存在であると同時に精神的な存在であるからこそ矛盾が生じるのです。
その矛盾を指摘するのは精神的な存在としての自分です。
しかし、話はさらに込み入ってきますが、人間の知性は動物的存在に奉仕するようにできています。
人間の脳は動物的な部分ですから。
動物的存在に奉仕するはずの知性が、動物的存在を否定するのはおかしいです。
実は動物的存在を否定するのは、知性ではなくさらにその内奥の声、世界の根源より来る意志であるわけです。
人間は一個の肉体を有する動物ですが、同時に宇宙万物の一部でもあります。
つまり、自己の肉体に対する愛から宇宙万物に対する愛に変えよという声です。
とは言え、動物的な本能も宇宙万物の意思に変わりはないわけですから、これを否定するのではなく、あくまで重点を移せということだと思います。
個別的な生存である限り、生と死、そして破滅があるわけですが、一たび世界の本源に目を向けるならば、そこには永遠不滅の実体としての世界があるのみです。
結局、人間の知性は個人の意思よりも宇宙万物としての意思を優先すべきことを悟るのです。
なぜならば、其処にこそ平安を見出すからです。

さて、このような説明も一つの仮説にすぎませんが、ある程度こころの整理に役に立つのではないでしょうか。

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ヤコービ

カント哲学は基本的には正しいと私は思っています。
ただ人生問題に対するアプローチの仕方が私とは少々異なるようです。。
私はむしろ、哲学史(シュヴェーグラー)でカントの次に出てくるヤコービに共感を覚えます。
ヤコービという人については、私はよく知りませんが、カントとほぼ同時代のドイツの思想家ということです。
日本でもその著作についてはほとんど知られていないので、私もこの哲学史の簡単な解説とウィキペディアの記事で知るのみです。
にもかかわらず、私はこの人の考え方をほぼ推察することができます。
なぜなら私の思っていることと同じだからです。

ヤコービは神を論理的に導き出すことは出来ないと言って、スピノザ主義を批判しています。
スピノザはご存知のように幾何学的手法で神を論証しようとした人です。
「ヤコービはスピノザ主義は宿命論であり無神論であると言い、哲学的論証の道はすべて宿命論および無神論へ導くとし、もしこれにおちいるまいと思えば、われわれは論証の限界を認め、人間のあらゆる認識のエレメントが信仰であることを承認しなければならない。」(哲学史)
もちろん、スピノザ自身は清廉潔白な人であり、真剣に神を求めていたのは言うまでもないのですが、神を論理的に導き出そうとしたのは誤りであると言わざるを得ないでしょう。
「もし哲学が有限な悟性をもって無限ををとらえようと思えば、それは神的なものを有限なものにまで引下げなければならない。」
「論証できるような神は神ではない。なぜなら論証の根拠は常に論証されるべきものの上にあり、後者は前者からその実在性を与えられるからである。もし神の存在が証明されなければならないとしたら、神は神よりも前かつ上にある根拠から導き出さなければならないであろう。」(哲学史)
世界の究極根拠を求めても、それを実証するにはさらに上の根拠を必要とするということでしょう。

というわけで、哲学が哲学である限り、スピノザ主義にならざるを得ないのであり、制約しながらしかも制約されたものの鎖のうちを回っているだけということになります。
そういう意味ではカントが「人間が認識できるのは現象のみであり、物自体には及ばない」としていることと相通ずるかもしれません。
カントは物自体を神とは言っていませんが、それに近い意味合いを持たせているのは事実です。
カントは「人間は英知界(物自体界)と感性界(現象界)の両方にまたがって存在している」と言っていますが、この英知界、すなわち物自体の世界では時間・空間の支配を免れた自由があると言っています。
(先なる出来事のない、第一の始めをカントは自由と呼んでいる)

哲学史ではヤコービはカント哲学の反対者という位置づけですが、必ずしも全て反対しているわけではなく、部分的な反対というのが正しいでしょう。
ヤコービはカント哲学というよりも、哲学自体を批判しているのであって、「反省を事とする悟性しか認めない哲学はすべて、結局なにごとも認識できないことを認めざるをえない。その終局はニヒリズムである。」(哲学史)ということです。

そこで選び取られる道が「非哲学」ということですが、以下は次回に。

日常の雑事

日常の雑事に追われてしばらく更新していませんでしたが、ここへ来てやや落ち着いてきたというところです。
高邁な思想も現実の差し迫った問題の前には後に引かざるを得ないというわけですが、「哲学・思想は暇人のすること」と誰かが言っているように、確かに現実に追われている人間には用はない話かもしれません。
大方の人はこの様な問題に深く関わることもなく一生を終えていくことでしょう。
とは言え、人間存在の根幹に関わる問題ですから、放っておくわけにもいきませんし、いづれ決着をつけなければならない場面があるでしょう
世にはその道の専門家と称する人もいるようですが、その実、金銭目的や名前を売るのが目的であったりします。
つまらない教えに引っかかって身を滅ぼすことのないように、ここはやはり自分で納得のいく答えを見出す以外にはないでしょう。

さて、カント哲学について書いていたのですが、しばらく間をおいていたので、どこまで書いたのか忘れてしまいました。
気ままなブログですのでその点はご容赦願いまして、道筋が見えてくるまで思いつくまま書いていくとしましょう。
「富士山は遠くから見てこそ美しい」と言われますが、カント哲学も同様に解説書を読む程度で止めておいた方が良かったのかもしれません。
純粋理性批判(篠田英雄訳)を途中まで読み進んだところですが、読むというより解読という感じです。
意味不明な部分が確かに多いのですが、意味の分かるところから類推してみるとそれほどのことを言っているのでもないようです。
それに、全編を通して同じことを言っているような気がします。
カントは客観的根拠という言葉を頻りに使います。
客観的根拠、あるいは客観的実在性などとも言っていますが、要するに経験による事実によって保証されたということでしょうか。
確かに、科学の世界でも、どんなにすぐれた論理も事実の前には沈黙せざるを得ないということで、事実に勝る確証はないわけです。
正に事実こそ、我々の立脚地であるわけですが、ただなぜそのような事実があるのかという問題にまでは深入りしないという前提ではありますが。

さて、カントは経験に裏打ちされていない論理は全て空論であるとして、その最たるものとして神の存在の論証をあげています。
神は見ることも聞くことも触ることもできませんし、論理的に導き出せるわけでもありません。
世界の原因をどんなに遡っても、神は出てこないのです。
結局カントは、神の存在論的証明をことごとく否定するのですが、神を求める人間のこころ自体は否定できなかったわけです。
神を求めるこころが事実として確実にあるならば、正しく客観的根拠たり得ると私は思うのですが。
むろん、人間のこころの要求としての事実ですから、現象界における客観的事実とは次元の異なる話ではあります。

ところで、カントは一方において人間が認識できるのは現象のみであり、物自体には及ばないとしています。
であるならば、カントが頻りに言っている客観的根拠なるものも現象にすぎないということになります。
現象の背後に在って、現象を成立せしめる実体がないとすれば、夢幻と変わりがないということになりますので、どうしても物自体を想定せざるを得ないわけです。
もちろんこれは想定であって、これ無しで済ませることもできます。
しかし論理的に整合性を保とうとするならば、いやでも想定せざるを得ないということです。
世界の原因をどんなに遡っても、究極の原因は出てこないと分かっていても、これを執拗の求めるのは、我々の根源的な欲求であるからかもしれません。

考えてみれば、「神は存在するか」という問い自体がナンセンスでしょう。
神が人間のこころの要請によって想定した概念とするならば、自分で想定したものを存在するかと問うことですから。
神とは人間の要請によって生じた概念だからといって、単なる空想の産物ではありません。
自分や世界が存在しているのと同程度に確かなことです。
なぜなら自分や世界の本質を神と言っているからです。
本来神という概念は非常に高度な概念であり、一般の人にはほとんど理解し難い概念です。
それを一般の人にも分かりやすく説かれたのが、現在我々が知っている神ということになります。
言わば透明人間に衣を着せたようなものです。
本来神とは言葉で言い表せない存在であり、それは「何々ではない」という否定的な表現しかできません。
なぜなら、言葉で表現した途端にそれは有限な存在になるからです。

さて、ここまで来ると問題が込み入ってきますので、それはまた次回にでも。

カント批判哲学の批判(2)

西洋哲学がめざしたもの、それはこの世界を余すところなく論理的な整合性をもって説明することであったと思います。
シュヴェーグラー「西洋哲学史」もそのような意識の中で書かれているようです。
しかし、未だにこれを成し遂げた人はいませんし、これからもいないでしょう。
無限な世界を有限な論理で捉えることなど出来るはずはありません。
カントはこれを論理的に証明しました。
カントは先験的感性論で「我々は物をありのままに認識するのではなくて、時間と空間という主観的媒質を通して物が我々に現象する姿を認識するにすぎない。」という間接的にではありますが、認識の限界を明らかにしました。
ただカント自身は論理的な思考の枠の中に止まっていたようです。
カントはその体系が主観の外部に或るものを前提にしているからといって、整合的でないとは考えていなかったということです。(フィヒテ哲学にかんするカントの声明)
我々の常識的な感覚からすれば、物事の九十九パーセントが明らかであっても、残りの一パーセントが不明ならば、これを整合的とはいいません。
カントは不可知な物自体を残しながら、一方において非常な明敏さをもって神、魂の存在、あるいは宇宙論的な問題の立証不可能なことを証明しています。
ところが不可知な物自体に関しては、それほど意に反しているとは思えず、深刻な問題として受け止めていないかにみえます。
確かに、不可知な部分をXとして確定してしまえば論理的にはそれなりに整合性は保てるかもしれません。
しかし、カントのいう物自体は世界の根幹部分であり、我々の存立基盤であるわけですから、それが不可知ということは、我々の認識が全く夢や幻と大差ないということになります。
その上にどんな精緻な論理を組み立てようと砂上の楼閣にすぎないのです。
もちろんカントは実践理性批判において「かつて理論の領域で失ったものを、再び豊かに取り返すのである。」(シュヴェーグラー「西洋哲学史」)ということで、思弁的理性によって否定された神、魂、宇宙論的理念(世界の初め、終りなどの問題)を実践的要請として、魂の不死、道徳の自由、及び神の存在を再び復活させています。
ただしこれもあくまで要請であって論理的に確証されたわけではありません。
ではなぜカントは不可知な物自体を残しながら平然としていられたのでしょうか。


さて私は今、解説書ではなくカント自身が書いた純粋理性批判(篠田英雄訳)を読んでいますが、これを通読するには時間がかかりそうです。
若い頃にも一度手にした記憶がありますが、もちろん途中で放り投げました。
当時その内容については全く意味不明でしたが、今でも半分は意味不明です。
今では解説書などで、カントの思想の大筋は分かっているのに、なぜ意味が通じないのでしょう。
若い頃には自分の勉強不足ということで済みましたが、今の私にとってはカントの言わんとしていることは大体見当がつきます。
にもかかわらず、意味不明ということはカントの書き方に問題があるのか、翻訳の方に問題があるのかどちらかですが、おそらく両方でしょう。
カントは研究者としてはずば抜けていますが、説明する能力にかけては有能とは言えないようです。
それに同じことの繰り返しが多く、東洋的な簡潔を旨とする文章に慣れている者にはかなり忍耐が要ります。
カントの論文が分かりづらいのは、幾何学的な精密さで論証しようとしているからかもしれません。


ところで幾何学といえば基点が必要です。
最低二つの基点が確定しなければ直線を引くこともできません。
もちろん任意の点でかまわないわけです。
ところが哲学ではそうはいきません。
哲学での基点は誰でもが納得できる確実な点でなければなりません。
いわば論証の根拠になるものです。
ではカントはそれをどこに求めたのでしょうか。
彼の論証の根拠になっているのは直観であろうとおもいます。
「直観こそが認識の実質を提供する条件だからである」(カント入門)ということですが、カントにあっては直観は感性の形式である空間と時間を通してのみ得られるということです。
それともう一つ、直観によって得られた素材を把握する枠組みがなければなりません。
カメラでいえば、光がレンズを通して入って来ただけでは写真はできず、フィルムに映像を写すことによってはじめて写真が撮れます。
その把握する枠組みをカントはカテゴリー(純粋悟性概念)と呼んでいます。
「有意味な認識の基となる総合は、要するに直観と概念との総合であった。」(カント入門)ということですが、カントはさらに直観とカテゴリーは共にア・プリオリでなければならないといいます。
ア・プリオリとは、経験に由来せずに普遍性と必然性をもつという意味であり、その反対に、経験に由来し、特殊的で偶然的であることをア・ポステリオリといいます。
なぜア・プリオリでなければならないのかというと、ア・ポステリオリでは普遍性と必然性をもたない、すなわち学問としての形而上学が成立しないからです。


さて、直観とカテゴリーは共にア・プリオリでなければならないということですが、直観の方は感性の形式である空間と時間がア・プリオリな直観として与えられているし、カテゴリーの方はもともと悟性に固有なア・プリオリな概念ですから問題はないわけです。
問題なのはア・プリオリという概念が本当に真理を保障するのかということです。
ア・プリオリという言葉はもともと先天的と訳されていましたが、確かにカント以前ではそのような意味で使われていたようです。
先天的ということならば、神が保障していることになります。
しかしカントはそのような意味で用いず、ア・プリオリを悟性がその自己活動によって悟性自身から獲得したという意味で「根源的獲得」としたのです。
そしてその根拠を「統覚」に求めました。
統覚とは「私は考える」という自己意識のことですが、意識は変化しても常に私は私であるという同一の私のことです。
統覚を判断する主体と見れば、確かに人間の意識の根幹として位置付けることができるかもしれません。
我々の精神現象を統括する機関がなければ、意識は全くまとまりのない妄想と化するでしょう。
ということで「選択の余地なくカントの到達したのが不動の自我、すなわち「超越論的統覚」という繋留点にほかならない。」(カント入門)わけですが、しかし一方において先験的弁証論のところで、合理的心理学に反駁する際に「しかしこの我思うは直観でもなければ概念でもなくて、たんなる意識、すなわちあらゆる表象および概念に伴ってそれらを統合し担っているところの心の作用である。」(西洋哲学史)と言って、自我を実体視することに反対しています。
ですからデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という考えとは別物であるわけです。
しかし実際問題として、統覚などという難しい言葉を使わずとも、我々は常識的に「私」が判断の主体であることは知っています。
そもそもそういう意識がなければ日常生活などできるものではありません。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も常識的にそのように受け取っているのです。
しかし厳密にいえば、「我思う、ゆえに我あり」の「我」は客観的に実在しているわけではなく、単に措定されたもの、すなわち現象にすぎないことになります。


さて、カントが論証の根拠としている直観にしても統覚にしても盤石というわけではなく、共に不可知な物自体に乗っかっているだけですから、単に現象界の認識にのみに通用する根拠にすぎないのです。
では先ほどの疑問にもどりますが、なぜカントは不可知な物自体を残しながら、矛盾を感じなかったのでしょうか。
これはやはり不可知として確定したからでしょう。
不可知として確定してしまえば、それはもう哲学上の問題ではないからです。
カントは「我々は我々の知り得ないことに対してはいささかの義務をも負うものではない」と言い、またある個所では「答えないことも、やはり一つの答えである」という言葉を引用しています。
「これを知るを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知る為り」とは孔子の言葉ですが、カントもまたこのような心境だったのかもしれません。
もっとも仏教では、こういった議論すら無意味であるとして無記の立場をとっています。
そしてひたすら実践を勧めているわけです。
カントも結局実践に行き着くことになるのですが、違うのは実践においても相変わらず論理優先ということでしょうか。


さて、カントが不可知な物自体を淡々として受け入れている背景には自然に対する絶対の信頼があったからだと思われます。
それは、先験的弁証論の緒言の最初のところに書いてあるのですが、「およそ自然の力が、自分自身の法則を自分で犯すようなことはあり得ない」だから「悟性が自分だけで誤謬に陥ることもなければ、感官が自分だけで誤謬を犯すこともないだろう」その理由は「悟性が自分の法則だけに従って作用しさえすれば、その結果は必然的に悟性法則と一致せざるを得ないからである」また「感官には判断はまったく存しない、つまり真なる判断もなければ偽の判断もないのである。」そして「我々は感性と悟性以外の認識源泉をもたない」とあります。
カントはここで先験的仮象について述べているのですが、つまり我々のどうしても避けがたい錯覚は主観的条件を客観的条件と見なされることから生じるということです。
これらの言葉から感じ取れるのは、客観的根拠を真理の判定基準としている点です。
客観的根拠、すなわち自然はうそをつかないということであり、間違いがあるとすれば我々の方に原因があるということのようです。

つづく


カント批判哲学の批判(1)

前回まで二回にわたってカントの純粋理性批判を見てきたわけですが、これだけでもカント哲学のおおよその内容の見当はつきます。
続いて実践理性批判に移るのですが、今回はちょっと書き方を変えまして、解説書に書いてあることをただ書き写すのではなく、私の解釈したカント哲学ということを中心にして書いていきたいと思います。

ところで、カント哲学は仏教や東洋思想などから見ると、同じ問題を扱っているのにもかかわらず、捉え方がかなり違うように思えます。
これはやはり、仏教や東洋思想には無い科学的な見方というものが背景に在るからではないでしょうか。
人生の諸問題を科学的な論理によって解明しようとしたのがカント哲学ということではないかと思います。
もちろんカントだけではなく、近代西洋哲学全体がそのような流れになっているのです。
スピノザなどは幾何学的手法で神の存在を立証しようという大胆な試みをしています。
確かに、数学的論理によってこの世の全てが明らかになればすばらしいことでしょうが、幸か不幸かこのようなくわだては今のところ成功しているとはいえません。
カント自身は幾何学的手法で哲学の諸問題を解決できるなどとは考えていないようですが、しかしそのような流れの中にいることだけは確かです。


カントは「純粋理性批判」を閉じるにあたって「~ 人間の知識欲があらゆる時代に、しかもこれまで空しく働いて来たことがらについて、人間の理性を完全に満足させるという仕事である。」と自らの批判主義の立場を述べています。
したがって、カントを哲学へと駆り立てたのは、学的な探究心、ありていにいえば知的好奇心からであって、煩悩からの解脱を説く仏教や人間としての生き方を説いた東洋思想とはスタンスが微妙に違います。
それは論文の書き方にも表れています。
いわゆる学術書スタイルであり、論理的形式であるわけです。
たとえば「実践理性批判の最初の部分は定義、四個の定義、四個の定理とその証明、系、二個の課題とその解答というような、いわば幾何学書に類する体裁を具えているが、~ 記述がこのような形式をとる必然性はないように思われる。」(実践理性批判 篠田英雄訳 解説より)
ということですので、学問としての哲学を強調していると思われます。
しかし考えてみれば当然のことで、カントは宗教家でも文学者でもなく、あくまで哲学者なのです。
ところで、哲学者というのは仏教や東洋思想には出てきません。
孔子や老子、あるいは龍樹や世親も哲学者とは普通はいいません。
哲学者というのは西洋独特の呼名であって、世界の根源的な問題を厳密な論理によって解明しようとする人であると思います。
であるならば科学者と呼ばれる人と探究する分野が違うだけで、ほぼ同じ仲間と考えていいのでしょう。


確かにカント哲学は未知な部分を残しているものの、世界をほぼ整合的に説明しています。
しかし、この世の矛盾に悩み、こころの安らぎを求めている人にはそれほど役に立つとは思えません。
実践理性批判においても、道徳律、善、徳といった概念を単に論題として客観的に扱っているだけで、それに対する切実さは感じられません。
私が今まで西洋哲学にあまり関心がなかったのは「救い」がなかったからだと思います。
人が哲学に求めているのは知的満足だけではなく、現に直面している不幸に対しての慰めであり、救いであるわけです。
そういう意味では、純粋理性批判の論理学の部分などはそれほど重要であるとはいえないでしょう。
今回私が西洋哲学について書いているのは、人生問題に役に立つかどうかの検証でもあるわけです。

つづく

プロフィール

magokorokara

Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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