プラトンのイデア論とカントの物自体

そろそろ忘れかけていたシュヴェーグラーの西洋哲学史ですが、途中で中断したままですので、いま一度振り返ってみようと思います。
確か、ギリシャ哲学のアリストテレス以降の哲学ということで、ストア学派辺りまで行ったと思います。
その後、新プラトン主義と続く予定でしたが、なぜか止めてしまいました。
同じ問題を長く考えていたので疲れたのかもしれませんし、新たな展開が見えなくなってしまったということもあるでしょう。
いづれにしても一年以上離れていたことになります。


さて、ギリシャ哲学では、やはりプラトンが傑出しているように私は思います。
アリストテレスは現象的な面に重点を置き、現象の背後にある真実在、あるいは魂といった見えざる存在に無関心のように見えます。
論理的整合性にこだわるアリストテレスはプラトンのイデア論の矛盾を非難します。
しかし、私はイデア論とは本来論理の外にある別次元の話であって、それをあえて論理の中に取り入れたために生ずる矛盾なのだと思います。
たとえば、カントの物自体という考え方はプラトンのイデア論と似ています。
しかも両方とも論証不可能です。
カントはプラトンのイデア論をもちろん知っているでしょうし、参考にもしていると思いますが、単に参考にしているだけではなく、積極的に取り入れているようにも思えます。
ただカントとプラトンの違うところは、カントは論理可能な世界と論理不可能な世界を分けているのに対し、プラトンは全てを同様に論じています。
カントのいう論理可能な世界とは現象界のことであり、論理不可能の世界とは世界そのもの(物自体)のことですが、論理可能な世界で全てが説明できれば、論理不可能な世界を想定する必要もないのですが、それが不可能なことをカントは厳密に証明しているわけです。
世界を整合的に説明しようとするならば、論理不可能な世界を想定せざるを得ないという皮肉な結論であるわけです。
というわけで、カントの物自体、プラトンでいえばイデアの世界は論理の及ばない別次元の話であって、心の世界あるいは実践の世界であり、これを理解するには頭ではなく心で理解する必要があるでしょう。


さて、カントの物自体には、当然多くの異論がありますが、それについては又別の機会にゆずるとして、今回はプラトンのイデア論とカントの物自体の関係について見ていきます。
結論からいえば、両方とも非常に似ているし、同じことをいっているとしか私には思えません。
逆に、カントの物自体という考え方によってプラトンのイデア論がはっきりするように思えます。

ではここでもう一度、プラトンのイデア論とは何かを思い出してみましょう。
シュヴェーグラーの「西洋哲学史」には以下のような定義がなされています。
イデアとは「多様のうちにおける共通なもの。個物のうちにある普遍的なもの。多のうちにある一。変転常ならぬもののうちにあって恒久不変なもの。」である。
ということですが、これに対してアリストテレスはイデアと個物との関係が曖昧であり、論理的に不整合であると指摘しています。
ではカントの物自体とは何でしょう。
ウィキペディア(物自体)には次のような解説文があります。
「言うまでもなく、この「物自体」という発想・概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類、すなわち、「理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるものであり、それをカントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)の枠内で表現した言葉・概念である」
ということで、カントの物自体は西洋哲学の延長線上にあることは間違いないでしょうが、ではその意味は何でしょうか。
シュヴェーグラーの「西洋哲学史」の(カントへの移り行き)という章にカントの思想が要領よくまとめてありますので、それを参考にします。
まず、カントは我々の認識能力を吟味しています。
「一切の認識は、認識する主観と外界という二つの要因の産物である。
その内の外界は我々の認識に素材(経験の材料)を与え、主観は形式(悟性概念)を与える。
もし、外界がなければ現象はありえず、悟性がなければ現象あるいは知覚は表象と成り得ない。
したがって、概念のない直観は盲目であり、直観のない概念は空虚である。」
ということですが、ここまでは当然なことを言っているわけで、いわば被写体をカメラで撮った写真を我々が見ているということでしょう。
しかし、次が問題なのです。
同じくカメラの例えで言えば、我々が見ているのは、カメラで撮った写真であって、被写体そのものではない、ということです。
ですから、被写体そのものは我々には絶対に見えず、ただそれが在るであろうと想像するだけということになります。
カントの認識論は次の三点に総括できるといいます。
(1) 我々は現象を認識するにすぎず、物自体を認識するのではない。
(2) にもかかわらず経験のみが我々の認識の範囲であって、無制約的なものに関する学は存在しない。
(3) それでもなお人間の認識が経験という自分に課せられた限界を踏み越えようとするならば、すなわち超越的になろうとするならば、それはこの上もなく大きな矛盾に巻き込まれる。


今回はカントの認識論がテーマではないので、ここまでにしておきますが、ただこれによって、アリストテレスが指摘したプラトンのイデア論の個物とイデアのあいまいな関係が、プラトンのイデアをカントの物自体に置き換えることによって、解消するように思われます。
しかし、物自体はプラトンのイデアと同様にあらゆるものに想定すべきであるのに、カントは実践理性批判において、善の物自体のみを強調しています。
後になって、カントも悪の物自体があることを認めていますが、それならばなぜ善の物自体を選ばなければならないかが曖昧です。
やはり、道徳律すら論理で証明しようとするカントの限界なのかもしれません。


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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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