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カント哲学(2)

前回よりのつづき

C 先験的弁証論
超験的と呼ばれる概念によって生み出される見せかけを破壊することが、先験的弁証論の課題です。
・悟性はカテゴリーをもち概念から原則をつくるが、理性は理念をもち悟性の原則の基礎である原理をつくる。
・悟性の制約された認識に対して、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力である。
・悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって、超験的になる。
・カテゴリーの超験的な誤った使用から先験的仮象が生まれる。この先験的仮象をあばくことが先験的弁証論の課題である。
理性の思弁的理念は三つあります。
(1) 心理学的理念(思考する実体としての魂の理念)
(2) 宇宙論的理念(あらゆる現象の総括としての世界の理念)
(3) 神学的理念(すべてのものの可能性の最高の条件としての神の理念)
これらの理念とともに、理性は悟性のカテゴリーを無制約的なものへ適用しようとして、仮象と幻想のうちへ巻き込まれます。
心理学的理念においては「純粋理性の誤謬推理」を犯し、宇宙論的理念においては「純粋理性の二律背反」へと追いやられ、神学的理念においては「純粋理性の理想」のうちをさまよう。


(a) 純粋理性の誤謬推理
・ここで伝統的な合理的心理学の完全な破壊をくわだてる。
・心を非物質性という属性によって霊的な物とし、不破壊性という属性によって単純な実体とし、人格性という述語によって数的に同一の叡知的実体とし、不死という述語によって空間的でない思考的存在としていた。
・これらはすべて「我思う」から導き出されたものであるが、この「我思う」は直観でもなければ概念でもなくて、たんなる意識、心の作用にすぎない。
・この思考作用が物と考えられ、主観としての自我が客観としての自我(魂)にすりかえられる。
・思考そのものを肉体から離して考えることはできるが、だからといって思考が肉体から離れて存在するということにはならない。


(b) 純粋理性(宇宙論)の二律背反
※ この部分は前回冒頭で述べたことの繰り返しになりますが、「哲学史」の方ではこの部分についての説明はそれほど多くはなく、定立と判定立を列挙するだけに止まっています。
・宇宙論的理念を完全に集めるにはカテゴリーを導きの糸とする必要がある。
量 → 世界の空間と時間との全体についてなんらかのことが確定されなければならない。
質 → 物質の分割性についてなんらかのことが確定されなければならない。
関係 → 世界に現在あるところの諸結果にたいして原因の完全な系列が見出されなければならない。
様相 → 偶然的なものがその諸制約にしたがって理解されなければならない。
以上四つのすべての点について相反する主張が同じ妥当性をもって証明される。
(1)
定立 ー 世界は時間のうちに始まりをもち、空間的にも限られている。
反定立 ー 世界は時間的始まりをもたず、空間的限界もない。
(2)
定立 ー 世界におけるすべての複合的な実体は単純な諸部分から成り立っており、単純なものとそれから合成されたもの以外のものは存在しない。
反定立 ー 複合物は単純な諸部分から成るものでなく、世界には単純なものは存在しない。
(3)
定立 ー 自然の法則にしたがう因果性は、世界のあらゆる現象がそれから導き出されうる唯一の因果性ではなく、それらを説明するためには、なお自由による因果性が想定されなければならない。
反定立 ー 自由は存在せず、世界における一切は自然法則にしたがってのみ起こる。
(4)
定立 ー 世界にはその部分としてか、あるいはその原因として、端的に必然的な存在が属する。
反定立 ー 世界の原因としての端的に必然的な存在は世界の内にも外にも存在しない。

以上、これらから、この争いがすべて無価値であるという帰結がおのずから生まれる。


(c) 純粋理性の理想(神の理念)
カントはここで、もっとも実在的な存在(神)の実在を証明しようとする旧形而上学の努力に反対している。
それは「存在論的証明」「宇宙論的証明」「自然神学的証明」からなされている。
「存在論的証明」については、まったく勝手に作り上げた理念から、それに照応する対象そのものの存在を案出しょうということは、まったく不自然なことであり、机上の知識を事あたらしく作りかえたものにすぎないとし、「宇宙論的証明」では、現象する偶然的なものから、経験をこえて必然的な存在者を推論するという誤りを犯していると言い、「自然神学的証明」においては、それは世界の形式から、この形式にふさわしく十分な原因を推論するのであるが、このような仕方では世界の形式の創始者すなわち世界の建設者がえられるだけで、質料の創始者でもある者、すなわち世界の創造者はえられないとしています。

したがって、我々が理性を理論的に用いるかぎり、最高の存在というものは、誤ってこそいないがたんなる理想にすぎず、人間の全認識の究極および頂点をなしてはいるが、その客観的な実在性は明確に証明もされず、といってまたもちろん反駁もできない一概念にすぎない。
ではなぜこのような概念があるかといえば、それは構成的(客観的)原理として、経験を越えて我々の認識を拡大することはできないとしても、規制的(主観的)原理として我々の経験に秩序を与え、それを或る種の仮定的統一にもたらす役目をもってはいるのである。
また、規制的(主観的)な意義のほかに理念は実践的な意義をもっている。

意志の自由、魂の不死、神の存在が知識には必要でないのに理性が切に我々にもたせようとしている三つの根本原理であるとすれば、それらの本来の意義は実践の世界において、すなわち道徳上の確信にたいして存在するのであろう。


以上が純粋理性批判の概略です。
次に実践理性批判へと移ります。


つづく

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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