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カント批判哲学の批判(1)

前回まで二回にわたってカントの純粋理性批判を見てきたわけですが、これだけでもカント哲学のおおよその内容の見当はつきます。
続いて実践理性批判に移るのですが、今回はちょっと書き方を変えまして、解説書に書いてあることをただ書き写すのではなく、私の解釈したカント哲学ということを中心にして書いていきたいと思います。

ところで、カント哲学は仏教や東洋思想などから見ると、同じ問題を扱っているのにもかかわらず、捉え方がかなり違うように思えます。
これはやはり、仏教や東洋思想には無い科学的な見方というものが背景に在るからではないでしょうか。
人生の諸問題を科学的な論理によって解明しようとしたのがカント哲学ということではないかと思います。
もちろんカントだけではなく、近代西洋哲学全体がそのような流れになっているのです。
スピノザなどは幾何学的手法で神の存在を立証しようという大胆な試みをしています。
確かに、数学的論理によってこの世の全てが明らかになればすばらしいことでしょうが、幸か不幸かこのようなくわだては今のところ成功しているとはいえません。
カント自身は幾何学的手法で哲学の諸問題を解決できるなどとは考えていないようですが、しかしそのような流れの中にいることだけは確かです。


カントは「純粋理性批判」を閉じるにあたって「~ 人間の知識欲があらゆる時代に、しかもこれまで空しく働いて来たことがらについて、人間の理性を完全に満足させるという仕事である。」と自らの批判主義の立場を述べています。
したがって、カントを哲学へと駆り立てたのは、学的な探究心、ありていにいえば知的好奇心からであって、煩悩からの解脱を説く仏教や人間としての生き方を説いた東洋思想とはスタンスが微妙に違います。
それは論文の書き方にも表れています。
いわゆる学術書スタイルであり、論理的形式であるわけです。
たとえば「実践理性批判の最初の部分は定義、四個の定義、四個の定理とその証明、系、二個の課題とその解答というような、いわば幾何学書に類する体裁を具えているが、~ 記述がこのような形式をとる必然性はないように思われる。」(実践理性批判 篠田英雄訳 解説より)
ということですので、学問としての哲学を強調していると思われます。
しかし考えてみれば当然のことで、カントは宗教家でも文学者でもなく、あくまで哲学者なのです。
ところで、哲学者というのは仏教や東洋思想には出てきません。
孔子や老子、あるいは龍樹や世親も哲学者とは普通はいいません。
哲学者というのは西洋独特の呼名であって、世界の根源的な問題を厳密な論理によって解明しようとする人であると思います。
であるならば科学者と呼ばれる人と探究する分野が違うだけで、ほぼ同じ仲間と考えていいのでしょう。


確かにカント哲学は未知な部分を残しているものの、世界をほぼ整合的に説明しています。
しかし、この世の矛盾に悩み、こころの安らぎを求めている人にはそれほど役に立つとは思えません。
実践理性批判においても、道徳律、善、徳といった概念を単に論題として客観的に扱っているだけで、それに対する切実さは感じられません。
私が今まで西洋哲学にあまり関心がなかったのは「救い」がなかったからだと思います。
人が哲学に求めているのは知的満足だけではなく、現に直面している不幸に対しての慰めであり、救いであるわけです。
そういう意味では、純粋理性批判の論理学の部分などはそれほど重要であるとはいえないでしょう。
今回私が西洋哲学について書いているのは、人生問題に役に立つかどうかの検証でもあるわけです。

つづく

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Author:magokorokara
私は学者でも、宗教家でもなく普通の社会人ですが、人生問題に悩んでいた若い頃読んだ本を長い年月というフィルターを通してみて、あらためて考えたことを整理しながら書いています。

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